当協会会長水谷章人より故小野学氏に代わり荻原健司氏に記念の写真盾を贈呈

第4回 AJPS AWARD 2010

第4回AJPS AWARD 2010は会員及び実行委員からのノミネート者8名から選考作業に入りました。この8名を会員及び実行委員から推薦(投票)を参考に協議の末、本年度(2010年)のAJPS AWARD 2010は小野学氏に特別賞に大日方邦子氏が決定されました。

第4回 AJPS AWARD 2010 「小野学」氏に決定!

小野学(おの まなぶ)■受賞理由
小野氏の長年の実力と功労が現在の冬季競技の技術向上と発展に繋がっていること。

小野学(おの まなぶ)

1950年9月14日 – 2010年7月3日。
長野県出身。1980年現役引退。その後1984年から全日本スキー連盟ノルディックスキーナショナルチームジャンプコーチを兼任。1992年から2000年までナショナルチームヘッドコーチを務めリレハンメルオリンピックでは日本チームを団体競技で銀メダルへと導く。
4年後の長野オリンピックではLH(ラージヒル)で船木が金メダル、原田が銅メダル、NH(ノーマルヒル)で船木が銀メダル団体競技においては見事に金メダルに導いた。日本ジャンプチームの黄金期を築く。アルベールビルオリンピック直前の1991-92シーズンのスキージャンプ週間でV字ジャンプが世界の主流になっていることを確認、得意の語学力を生かしてこれを学び日本選手らに指導を行った。また、ジャンプの科学的分析にも力を入れ、踏み切りの画像解析システムなどを開発して選手強化に生かした。国際スキー連盟の技術委員なども歴任。2010年はバンクーバーオリンピックでテレビ中継の解説を担当した。同年7月3日、呼吸器不全の為に逝去。

第4回 AJPS AWARD 2010 表彰式

2011年度(平成23年度)AJPS総会後の懇親会にてAJPS AWARD2010の表彰式が開催され、受賞者の故小野学氏に代わり北野建設スキー部長荻原健司氏お招きし、当協会会長より記念品の写真盾が手渡されました。

第4回AJPS AWARD 2010記念写真盾
第4回AJPS AWARD 2010記念写真盾
当協会会長水谷章人より故小野学氏に代わり荻原健司氏に記念の写真盾を贈呈
当協会会長水谷章人より故小野学氏に代わり荻原健司氏に記念の写真盾を贈呈
挨拶をされる北野建設スキー部長荻原健司氏
挨拶をされる北野建設スキー部長荻原健司氏

第4回 AJPS AWARD スペシャルインタビュー 荻原健司氏

荻原健司氏――現役時代、北野建設のノルディック複合チームの選手だった荻原健司さん。片や故小野学さんは、北野建設のジャンプチームの監督。お二人の間に普段、接点はどれほどあったのでしょうか。

荻原— 小野さんは、同時に全日本のジャンプチームのヘッドコーチでもありましたけれど、北野建設にいる時は監督という立場で、お互い毎日顔を合わせていました。私たちを指導してくれていましたので、一言でいえば恩師です。

――特に夏の時期を一緒に過ごしたわけですね。

荻原— シーズンに入れば、お互い別々の会場で試合をしたのですが、オフシーズンは逆に我々に付きっきりでした。

――健司さんはジャンプで得点を稼いで距離で逃げ切るタイプの選手。強さの源は、小野さんが指導するジャンプでした。

荻原— スキージャンプの技術「V時ジャンプ」を含めた国際的な動向だとかを踏まえながら、小野さんは北野建設スキー部の選手にいろんな指導をしてくれました。
自分が所属するチームに、全日本のジャンプのヘッドコーチがいるということは、安心感につながるというか、選手としてもいろんな意味でやりやすかったですね。
世界の最先端の情報を持っていた方でもあったので、世界の動向、ナショナルチームの動向など、いろんなことを聞けば必ず返ってきますし、ちょっとわかんないなってことは一切なかったですね。そういう意味で、自分の現役時代の結果を含む、これまでのスキーの活動に、本当にいい効果をもたらしてくれました。

――小野さんは、非体育会系と言いましょうか、緻密で冷静な方でしたよね。

荻原— そうです。小野さんは一言でいえば研究者。物事を科学的、理論的に研究して、それを踏まえて技術指導する人でした。小野さんの年代のスポーツ指導者といえば、自分自身の経験を中心に、指導される方が多かったと思うんです。そうした中で、それだけじゃダメだ、技術的かつ論理的な裏付けがキチンとあってこそ、初めて教えられるんだということを理解している人でした。その点に選手はいちばん信頼を寄せていた。

――それ大切ですね。

荻原— なんとなくこの方向に飛び出せとか、こんな感じで踏み切れとか、なんとなくとか、こんな感じとかそういう感覚的で曖昧な指摘は一切なかったです。
もちろんスポーツなので、最終的には精神的な面がものを言いますが、それは理解しつつ、毎日パソコンと向き合い、ジャンプの動作の研究に余念がなく、その的確な科学的な分析を基に、論理的な指導を行う小野さんが身近にいることが、大きな安心感につながっていたことは確かです。

――地元開催の長野五輪。ジャンプチームのヘッドコーチをつとめていた小野さんには、相当なプレッシャーが降りかかっていたと聞いています。金メダル獲得が、至上命題になっていました。片や健司さんにも選手として、別の意味でのプレッシャーがあった。

荻原— 北野建設の監督という立場では、激励してもらったりしましたけれど、ただその時期、小野さんは全日本のジャンプチームに付きっきりでしたから。また小野さんとしても、我々複合チームのコーチの存在を考え、あまり自分が出て行くのはマズいと、立場を弁えていた様子でした。
加えて、ジャンプチームとして金メダルを取らなければという至上命題もありました。お互い大変な立場にありましたが、選手を指導する立場になってつくづく痛感することは、他人にメダルを取らせるって大変だなということです。
自分でやった方がよっぽど楽。頑張ろうが途中で投げ出そうが、自分の問題でしょ。それを選手に言い聞かせ、やる気を起こさせ、メダル獲得に向けガッツを出させるとなると、本人のやる気ももちろん重要ですが、外からの刺激、どのような言葉を掛けるかが重要になる。選手はそれ次第で、覇気がでたり、沈み込んだりする。
冷たい言い方をすれば、選手って何のかのいっても所詮、他人。自分ではない。自分のケースを一切当てはめられないところが、指導者にとって難しいところですね。

――せっかくいっぱい経験を積んだのに(笑)。そういう時に、自分のコーチの姿を思い出すんじゃないですか?

荻原— 小野さんご自身もスキージャンプの選手で、全日本レベルの選手でしたけれど、引退後、北野建設の指導者になり、長野五輪で日本にメダルを取らせたワケです。つくづく凄いなと思います。選手にメダルを取らせるのは容易じゃない。
取らせることができた理由は、やはり研究熱心であったこと。堪能な英語を駆使する国際人であったことも見逃せません。そうした小野さんの優れた部分が、すべて当時のジャンプチームに注がれていたと思うんですよ。
その感情論に走らない論理的な意見に対して、国内のみならず、FIS(国際スキー連盟)の関係者たちも一目置いていました。

――どちらかと言えば、威勢のいい選手が多かったジャンプチーム。研究者っぽい小野さんとは相性が良かった?

荻原— 小野さんはヘッドコーチだったので本当の細かい指導は、コーチがしてたと思うんですが、会社で言えば小野さんは役員というか社長。やはり、会社というのはある意味リーダー次第。その心意気というかガッツで方向付けされます。選手に直接アーしろ、コーしろっていうのは少なかったと思いますが、それを引き出すために、コーチ陣を巧くリードしていたと思う。

――ジャンプチームには不思議なバランスがありました。

荻原— 頭脳明晰で国際的に活躍している人がリーダーにいる。もちろん羨ましくもありましたが、優れた指導者には、選手としてのキャリアより大切なものがあることが、ジャンプチームを端から見ていてよく分かりました。
小野さんが残した功績に追いつくのは至難の業。いま、その大変さを痛感している最中です。

(取材/構成 杉山茂樹)


第4回AJPS AWARD 2010では、特別賞を新たに制定いたしました。
特別賞を制定した理由として、障害者スポーツのパイオニア的な存在である大日方氏の功績を称えるとともにAJPSも幅広い分野での活動実績を広く伝えて行くこが重要であるという事が制定及び受賞の理由です。

第4回AJPS AWARD 2010 特別賞「大日方邦子」氏に決定!

大日方邦子(おびなたくにこ)■受賞理由
チェアスキーの先駆者としてパラリンピックの知名度アップに貢献してきたこと。

大日方邦子(おびなたくにこ)

1972年4月16日、東京都出身。アルペンスキー座位。冬季パラリンピックで日本選手最多の通算10個(金2個、銀3個、銅5個)のメダルを獲得した。2010年のバンクーバーパラリンピック滑降で転倒負傷し、日本代表チームからの引退を決断した。今後は国内の大会に出場しながら後進の指導や人材発掘に努めるとともに、スポーツの魅力を広く伝えるために活動していくという。3歳のとき交通事故で右足の大腿部を切断し、左足にも後遺症が残った。高校生のときチェアスキーを知り、1994年リレハンメル大会から5大会連続でパラリンピックに出場。

第4回 AJPS AWARD 2010 特別賞 表彰式

2011年度(平成23年度)AJPS総会後の懇親会にてAJPS AWARD2010の表彰式が開催され、特別賞受賞者の大日方邦子氏をお招きし、当協会会長より記念品の写真盾が手渡されました。

特別賞の記念写真盾
特別賞の記念写真盾
当協会会長水谷章人より大日方邦子氏に記念の写真盾を贈呈
当協会会長水谷章人より大日方邦子氏に記念の写真盾を贈呈
挨拶をされる大日方邦子氏
挨拶をされる大日方邦子氏

第4回 特別賞 インタビュー 大日方邦子氏

大日方邦子氏今回、障害者スポーツのパイオニア的な存在として、特別賞を受賞されました。そのご感想をお聞かせください。

大日方— 「今回このような素敵な賞をいただきとても光栄です。多くの競技者の方がいらっしゃる中で、本当に私で良いのかなと、正直言って驚いています」

ここ数年、パラリンピックへの注目度が高まっていますね

大日方— 「確かにパラリンピックは日本でも回を重ねるごとに認知度が高まっています。みなさんにもスポーツとしてしっかりとご覧いただいている実感がありますね。そして各競技の競技性自体も高くなっているような気がします」

その中で特に注目して欲しい部分はありますか?

大日方— 「パラリンピックというシチュエーションから見ると、私たちも含めて選手は身体の機能の一部が失われています。しかしそれを乗り越えて、残された部分を活かして最大限のパフォーマンスをするために努力しています。そんな選手たちが、それぞれの可能性にチャレンジしているところを是非注目してもらいたいですね。障害者スポーツというのは何もパラリンピックが全てではありません。一般の障害者の方でもスポーツを楽しんだりチャレンジしたりしている方々がたくさんいらっしゃるので、そのような幅広い視点で見ていただけると非常に嬉しいです」

競技生活をしながらご苦労されている点は?

大日方— 「一番困難なのはアクセスですよね。スキーは雪がないとできないスポーツですが、逆にその雪に阻まれてしまう難しさは健常者以上にあります。アメリカやカナダの場合、障害者がスキーを楽しむための工夫をしている施設が多いんですね。しかし日本ではまだそのような施設を探すのは困難なので、どこかが手を上げてくれると嬉しいのですが…」

バリアフリーに対する課題は大きいようですね

大日方— 「ただ、現地に行ってしまえば周りの人も手助けをしてくれるし、みんな協力的なので意外と何とかなってしまうんですよ。実際には自分達が使いやすいゲレンデに足を向けることが多いのですが、今後はもっといろんな場所に行って、障害者の方にも使いやすいゲレンデにできるよう、スキー場の方にもお願いしたいです。駐車場やその他の施設なども使いやすくして、どんな障害を持っていたとしても、ここに行けばみんなで楽しめる、という場所をもっと広げたいです。将来的にはいろんな方の協力を得て、障害を持っている子供たちと一緒にスキーするイベントをしてみたいですね」

競技生活以外にはどのような活動をされていらっしゃるのですか?

大日方— 「日本パラリンピアンズ協会(PAJ)という、パラリンピック出場経験者の、いわゆる選手会活動が中心になっています。現在はその協会で副会長を務めています。協会では種目の枠を超えて100名以上が所属しており、選手同士の横の繋がりを作っています。先日も選手会の活動として、震災によって被災した障害者スポーツの仲間たちに対する義捐金集めなどを実施しました」

この震災では被害も大きかったでしょうね

大日方— 「全て把握できている訳ではありませんが、私達の耳に入っているだけでも相当な被害がありました。道具が津波で流されたり、体育館などの練習施設が使えなくなってしまったり… トレーニングウェアもなく着の身着のままで練習しなければならない方もいるようです。最近になってようやく練習を再開した方々の話が少しずつ伝わってきましたが、なかなか厳しい状況であることには変わりません」

日本代表を引退されてしまいましたが、今後の活動予定をお聞かせください。

大日方— 「後輩たちのためにチーム全体の手助けをしたいですね。アルペンスキーチームのアドバイザーとして、競技をより良く知っていただくための広報活動や、更新の指導など若手の育成もしなくてはなりません。選手としても、代表からは引退しましたが、競技自体は今後も続けていきたいです。今年は震災で残念ながら国内大会が中止になってしまいました。しかし引き続き国内の試合に出場しながら、若い選手の、特に女子選手へのサポートを積極的にするつもりです。そのためにメディアの皆様にもいろんな形で取り上げていただきたいし、少しでも多くの方々に、数あるスポーツのひとつとして認知していただけると嬉しいです。障害者スポーツというジャンルではなく、数多くのスポーツのひとつとして、私達の競技に関心を持ってもらいたいですね」

最後にスポーツを愛するみなさんへ一言メッセージを

大日方— 「今までのスポーツは健康な方がするものという意識が強かったのではないでしょうか。そしてオリンピックやパラリンピックに出場することだけがスポーツではなく、誰にでも気軽にできるものだと思います。スポーツは障害のある方も高齢者の方々も楽しんでいます。いろんな方が、いろんなシチュエーションで取り組むことができるので、是非たくさんのスポーツを楽しんでください」

(取材/構成=木村理)