「私のベスト五輪――ミュンヘン1972年夏季五輪」 Text 畠山喜代子 / HATAKEYAMA KIYOKO

 AJPS報道展「The BEST」ライター会員作品集

日本人はオリンピックが好き、私もその一人である。お友達から「お兄ちゃんが選手で出場するので一緒に応援にきて」といわれて戸田ボート場へでかけ、1964年五輪東京大会で初めてオリンピックなるものを観戦した。

その後はスキー競技の仕事で多く冬季五輪をチケット取材、長野五輪は、ボランティアでチームインフォメーション、2006年トリノ五輪はIOCプレスカードだが、仕事しやすいという点ではチケット取材が一番だといまでも思っている。

1972年2月冬季五輪札幌大会の70メートル級スキージャンプでの笠谷幸生、金野昭次、青木清二選手による金、銀、銅メダル獲得を見たのはスイスのスキー場の宿のテレビであった。流れる君が代を聞き友人と感激し、同年のミュンヘン五輪は絶対に観戦ときめこんだ。

スイスの新聞で五輪ミュンヘン大会観戦という格安バスツアーを見つけて早速申し込み、入場券の購入もできたので、開会式、体操、水泳などを購入することが出来た。

勿論、宿泊はホテルなどではなく、五輪会場の近くに作られた観客用の大テント村で男子、女子と家族用にわかれ、二段ベッド、テントごとにシャワー、トイレが設置されていた。朝、夕食の食券をもらって、毎日食堂テントへ、友人は中学校のサマーキャンプみたいと笑った。

■小、中学生らしき5、6人の子供たちがやってきて……

開会式は晴天で、小さいカメラで日本チームの入場、日の丸の波、整然とした日本選手団を撮影でき、まわりに日本人はいなかったので「頑張ってぇ!」と遠慮なく叫ぶこともやった。

毎日、選手村入り口の前を歩いて会場に通ったが監視人もいなくて、かってに記念写真をとり、芝生にかこまれた人工池のまわりの集いの広場では多くの観客、美しいブルーのユニホームの場内係員のお兄さんたちと写真をとった。

集いの広場には掲示板があり、その日のインフォメィションがあって、競技のほかに観客へのイベントも掲示されていた。

小、中学生らしき5、6人の子供たちがやってきて、

「サインしてくさい」

「私たちは選手ではありません。見物人です」

「かまいません、お国の言葉で書いてください」

気がついたらさらに大勢の子供たちが列をなしているのに閉口したが、一人一人が「ありがとう」といい、満足そうだったのでほっとした。無理もなかった、Tシャツにトレーナー、運動靴で首にはテント村の在留証明書をぶらさげていたから勘違いされたのかもしれなかった。

翌日からは派手なブラウスをきて、友人は日焼け止めにもってきた貴婦人のようなボンネットをかむった。

池のほとり、きれいな芝生にはいろいろな人が休んでいたが、選手たちにとっても憩いの場であったらしく、各国のユニホーム姿がみられた。中の比較的小柄な男子選手には見覚えがあった。ユニホームにCCCPとあって確認でき、

「ミスター・アンドリアノフ、サインをお願いしたいのですが」

ソ連(現ロシア)のトップ選手、その力強く華麗な演技は体操日本にとっても最大の強敵であった。 10枚もの絵葉書の裏にはきれいな字でサインをしてくれたあとでニコライ・アンドリアノフは「ニッポンの応援だけでなく、我々ソ連も応援してくださいね」と言った。勿論ですと礼を述べ活躍を祈った。

■今でも大切なサイン入りのスカーフ

同行の友人は高校まで体操をやっていて会場で偶然に出会ったのは女子チームの引率でこられた恩師であった。選手のサイン集めも新しい趣味になっていたので、先生に選手たちのサインをお願いし、記念に購入したミュンヘン五輪のロゴマークいりスカーフを手渡した。

翌日取りに来てくださいと言われ、会場の選手用出入り口で待っていると、持ってきてくれたのは故・遠藤幸雄氏、ミュンヘンではコーチとしてこられていたのだが「わざわざ応援に来てくれて有難う。皆で頑張ります」といわれてさらなる感激を味わった。このサインいりスカーフ(写真)は今でも私の大切な宝物である。

8月30日は男子個人総合のメダル決定の日だった。これまでの結果から日本選手のメダルは確実、それがどう展開されるのかは誰もが関心をもつ重要な日であった。だが、私たちは最大の失敗、このチケットを購入していなかったのである。

あわててチケット窓口に飛んでいったが五輪開始以前に完売されて皆無だった。オリンピアパーク、スポーツホール入り口階段に座り込んでダフ屋でも来たら買うんだけどとも思ったが、ここにはそんなものはこなかったし、当時は屋外広場にテレビの大スリーンなどはなかった。

「どうなさったのですか? ご気分でも悪いのですか?」と高校生位の娘さんを連れたドイツ婦人に声をかけられた。

「いいえ、病気ではありませんがここに入れないので悲しんでいます」

「ああ入場券、ここに2枚ありますけど」

私たちは飛び上がった。

「ゆづってください!お願いします」

「差し上げます。私たちは他に予定がありますのでよろしいのですよ」

チケットは40マルクで開会式と同じ値段だった。

「あの、お支払いできますけど」

「差し上げます。さあ、急いで、まもなく始まりますよ」

私たちはなんども最敬礼をして会場に飛び込んだ。

座席は前から4列目、これまでの最高のシートだった。友人は「私たち名前も聞かなかったけど素晴らしい人、神様のお使いかもしれない」それは私も同感だった。

■日本チームが金、銀、銅のメダル独占

「エンドー! 遠藤!」

日本チーム入場への声援に遠藤コーチは手をふって答え、それをカメラに収めた。 競技は切迫したポイントで展開され男子個人総合1位、加藤沢男、2位、監物永之、3位、中山彰規選手と、金、銀、銅のメダル独占で終了した。君が代を聞きオリンピック最高の場面にあったことの喜びをかみしめた。

9月4日チューリヒに戻り、翌日の夕方ラジオの臨時ニュースでパレスチナのテロが選手村のイスラエルチームを襲撃、多勢の死者と聞き仰天した。オリンピックでこんな事があるなんて! 友人も相当なショックを受けていたが、このトラウマから開放されるにはその後の経過は一切知る事をさけ、ミュンヘンオリンピックは9月4日で終了し、素晴らしい人々との出会いのみを思う事で「ベストなオリンピック」と考えることにした。