「刻まれた新たな歴史――セパタクローに懸ける男たちの物語」 Text 岩本勝暁 / IWAMOTO KATSUAKI

 AJPS報道展「The BEST」ライター会員作品集

約束の時間は20分ほど過ぎていた。

北千住の裏通り。パチンコ屋の2階にあるレトロな喫茶店には、夕飯の買い物を終えた主婦の笑い声が響いていた。薄暗い照明と深紅の絨毯。だだっ広い空間を生かした贅沢な間取りが、昭和のたたずまいを感じさせる。

やがて自動ドアの向こうから彼が姿を現した。あたりに目線を這わせると、息を切らせながら歩み寄ってくる。

ダウンジャケットの下にグレーのカーディガン。日本代表チームとオフィシャルサプライヤー契約を結んでいるブランドだ。若者から絶大な支持を得ているというパステルカラーのロゴが、丁寧に刈り揃えられた顎鬚とよく調和していた。緩くウェーブのかかった髪は、試合中なら頭のてっぺんで結ばれている。

「すみません、仕事から離れられなくて」

バツが悪そうに言うと、淡黄色のソファに慌ただしく腰を下ろした。手に持っていた一冊の雑誌を差し出す。

「これ、見ました?」

フットサルのイラストが描かれた表紙をめくると、見開き2面の広告。クライアントは彼が今まさに着ているブランドである。激闘を物語る30枚の写真が均等に並んでいた。その左隅に一行、小さくこう書かれていた。

≪2010年 広州アジア競技大会 セパタクロー 銅メダル獲得≫

それは、無名のアスリートたちが成し遂げた、大きな快挙を告げる文字だった。

■静寂を打ち破った携帯電話の着信音

2010年晩秋。夜。

時計の針が真上で重なり、11月8日に日付が変わった。中国・広州で開催されるアジア大会まであと4日。チームはこの日の夕方に集合して品川のホテルに前泊し、翌日には他の日本選手団と一緒に経由地の香港に向けて出発する予定だった。部屋の隅には、膨らんだスーツケースが置かれている。シルバーのボディには、日の丸と五輪マークのステッカーが誇らしげに貼られていた。

準備は整っていた。朝になって目が覚めれば、これを引きずりながらサラリーマンでごった返す山手線に乗る。「何の競技ですか?」って聞かれるかもしれない。何と返事をしようか。答えを言ったところで、相手は知らないかもしれない。でも、俺はきっと悪い気がしないだろう。知名度なんて関係ない。メダルを獲る自信は、十分にある。

ベッドにもぐりこみ、部屋の明かりを消した。そのときだった。携帯電話の着信音が静寂を打ち破った。一抹の不安を受け入れる間もなく、彼は通話ボタンを押した。

(落ち着いて聞いてほしい)

漆黒の向こうで、父の声は震えていた。

着の身着のままタクシーを捕まえて、荒川区の病院まで走らせた。20分程度の時間がとてつもなく長く感じられた。同じタイミングで到着した兄と合流し、受付を目指して走り出した。集中治療室の前で待っていたのは、電話をかけてきた父だった。扉の向こうにいる母は、すでに意識が混濁していた。

腸に繋がる動脈に血栓が生じ、内臓の機能が低下していた。3日前に血栓を取り除く手術をしたばかりである。それは成功した。しかし、容体は深刻な状態に陥っていた。これまで三度の癌に耐えてきた体力は、もはや限界に達していた。

あとはどれだけ存命できるか――。残酷な現実が、父の口から告げられた。

■「セパタクローだったら、日本代表になれるよ」

彼、寺島武志は日本代表メンバーの一員である。

競技はセパタクローだ。プラスチックの繊維を編んだボールを使う。コートの大きさはバドミントンと同じ6.1メートル×6.71メートル。アタッカー、トサー、サーバーの3人で構成されたチームをレグと呼び、ネットをはさんで3タッチ以内で相手コートにボールを返す。大まかなルールはバレーボールに似ているが、腕と手が使えないこと、一人が連続してボールに触れてもいいことが異なる。

寺嶋の身長は166センチ。けっして大柄ではない。しかし、バネを生かしたジャンプ力と高い技術は、チームの中でもずば抜けていた。肉体のベースは中学生の頃に築かれている。都内の名門サッカークラブで毎日のようにボールを追いかけた。高校での目立った成績はないが、日体大に進学してもサッカーを続けた。あるときから授業の合間にセパタクローのボールを蹴るようになった。同級生に声を掛けられたのがその理由だ。いつの間にか夢中になっていた。プラスチックの繊維が擦れるシャンシャンという音が、たまらなく心地よかった。

「セパタクローだったら、日本代表になれるよ」

はじめる動機としては、それだけで十分だった。

サッカー部は辞めた。セパタクローに専念すると、たちどころに頭角を現した。その年の学生大会で強化担当の目に触れる。日本代表の選考会に呼ばれ、数週間で「世界選手権に行ける」と聞かされた。驚異的なスピードで、トッププレーヤーまでの階段を駆け上がった。

■アルバイトで生計を立てながら目指したアジア大会

ネット際の空中戦が一番の見せ場だ。足と足が交錯するほどの激しい攻防から、「空中の格闘技」と呼ばれている。

アタックは大きく分けて二種類ある。一つは、サッカーのオーバーヘッドキックのように、宙返りしながら頭上でボールを蹴るローリングアタック。高さとパワーがあり、一番の花形である。

もう一つのシザースアタックは、ネットを背にして跳び上がり、足をはさみのように交差してボールを蹴る。走り高跳びの選手がバーを飛び越える姿勢に近い。トスがネットに寄ったとき、あるいは相手のブロックを揺さぶるときに効果を発揮する。

寺島はこの2つを、いち早く自分のものにした。

大学を卒業しても、アルバイトで生計を立てながらアジア大会を目指した。オリンピック競技でないセパタクローにとって、アジア大会は4年に一度の祭典である。しばらくすると、飲料の製造・卸売りなどを手掛ける企業に正社員として採用された。夕方から母校の練習に加わった。会社の理解を得て、年に一度は海外で行われる国際大会に出場した。

「裕福ではないけど、節約しようと思えばいくらでもできますからね。バイトをしながら競技を続けるのは、お金よりも気持ちの面のほうがキツい。確かにもっと海外で練習したい気持ちもあります。でも、今は日本のレベルも上がっていますから」

11月4日に誕生日を迎えていた。28歳になった。あとは、4年間の集大成で結果を残すだけだった。

■誰もが動揺を隠せなかった

11月8日。朝8時。

矢野順也はベッドの中にいた。携帯電話の着信音で目を覚ますと、おもむろにそれを取り上げた。画面の表示を見ると、ぶっきらぼうに「はい」と答えた。

(お母さんが……)

寺島からだった。声を聞いて、すぐに異変を感じ取った。

「はじめから泣きそうな声で、話し出したときにはもう泣いていました。あとは、『もうダメなんです』って……。出国をずらすことはできますかって聞くから、何とでもするから安心しろと言ったんですけどね」

矢野は寺島と同じ日体大の卒業生で、歳は7つ上だ。高くて美しいローリングアタックで、日本セパタクローの創成期を築いた。いわゆるカリスマ。ネット上のアーティストである。

2002年の釜山アジア大会が終わると、27歳の若さで第一線を退いた。2006年のドーハアジア大会は、女子チームのコーチとして参加。現在は日本セパタクロー協会に籍を置くかたわら、大学でセパタクローの講師をするなど普及活動に務めている。広州アジア大会では日本代表の広報としてメディアの窓口になり、応援に訪れた家族のチケットを確保するために奔走した。

寺島の一時離脱は、夕方になって他のメンバーにも伝えられた。男子メンバー8名は、すでに品川のホテルに集まっていた。誰もが動揺を隠せなかった。その中の一人、中塚智之は変則的なサーブを得意とする30歳である。チームでは上から2番目のベテランで、寺島との付き合いも長い。

「ホテルの部屋で祈るのもいいけど、ずっとチームで一緒だったし、そばにいて何かできたらと思ったんです」

書店に寄ると言ってホテルを出ると、誰にも告げずに駅へ向かった。はじめからその気があったわけではない。気がつくと、足がそこに向いていたのだという。山手線のホームに立ち、そのまま上野方面に向かう電車に飛び乗った。

■いつも背中を押してくれた母の旅立ち

中塚自身、4年前のドーハアジア大会の前に姉を亡くしていた。肉親を失う気持ちは痛いほど理解できた。聞いていた病院の名前を頼りにたどり着くと、中塚は寺島の携帯に電話を入れた。面会時間はとうに過ぎていたが、事情を話して中へ入れてもらった。

病室は明るかった。白熱灯が煌々と灯り、テレビからは無機質な笑い声が漏れていた。矢野も遅れて駆けつけた。もう一人、コーチの平瀬律哉もそこにいた。寺島の母は意識が落ち着いていた。3人の緊張を気遣うように、その声は明るかった。

「横断幕を作ってやろうと思っているのよ」

「テレビで見られるのかなあ」

「次は行こうと思っているんだけど」

病魔に伏せる前は、とても活発な性格だった。週に一度はママさんバレーに通っていたという。平日は家政婦の仕事で働き詰めだった。最近はクラシックバレエに挑戦したいと話していた。誰よりもスポーツが好きで、思いやりがあって、理解があった。だからこそ、息子がアジア大会に出場することを、心から応援していた。

3人は何と答えていいのかわからなかった。ただ、その手を握り返すことしかできなかった。

それからまる一日が過ぎた。12月10日午前5時50分、寺島の母・宏子は大勢の親族に見守られながら、静かに息を引き取った。60歳だった。

その日の朝を、寺島は肌で覚えている。空は漆黒から濃いブルーへ、そして東からオレンジへと変わりはじめていた。雲ひとつなく、透き通るような高い空だった。キンと澄み切った冬の空。なのに日差しは暖かく、体がポカポカとしてきた。乾いた空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。白い息を吐きながら、空に向かって語りかけた。

いつも背中を押してくれた母の旅立ちへ――。

「いい天気でよかったね」

そして、また、泣いた。

■一芸一能入試で大学に進学し、日本代表のエースへ

17年――、気が遠くなるほどの歳月を、日本のエースとして歩み続けた男がいる。

1993年。当時、寺本進は高校3年だった。広島アジア大会のプレ大会に、地元の代表として参加することになった。サッカー部の控え選手を中心に駆り出された。急造のチームだったから、はじめからうまくいくわけがない。

半信半疑のスタートが確信に変わったのは、そのあとに出場した世界大会である。本場のプレーを目の当たりにした。一生を捧げられる競技に出会ったと思った。日の丸のユニフォームに袖を通したことも、寺本の覚悟を後押しした。

一芸一能入試で亜細亜大学に進学すると、すぐに日本代表のエースに登り詰めた。だが、若いころの寺本にはコンプレックスがあった。アタッカーとしては致命的に体が硬かったのだ。股割くらいならある程度はできる。しかし、ネットの上で足を大きく開くアタッカーは、股関節の可動域が広くなければいけない。より高い打点からアタックが打てるように、毎日のストレッチを欠かさなかった。ビニールの袋を履いて、床の上で足を滑らせた。股関節がキシキシと悲鳴を上げた。「一度でも気持ちが切れたら戻ってこられないような気がした」。寺本は一日も休むことなく体を痛め抜いた。

■プロといっても、報酬は週給で5000円程度

2004年に訪れた転機は、文字通り彼の人生を一変させた。

セパタクローの本場タイ。サッカーにおけるブラジルがそうであるように、セパタクローの王国である。アジア大会や世界選手権など、国際大会のタイトルは総なめ。街のどこに行ってもセパタクローのコートがあり、学校帰りの子どもたちがボール遊びに興じている。セパタクローが文化として根付いたタイに、プロリーグが設立されたことは知っていた。踏み止まる理由などない。知り合いがいるタイ協会に、迷わず国際コールを入れた。

プロといっても、報酬は週給で5000円程度。窓がない体育館は、サウナのように蒸し上がっていた。あちこちに鳩の糞も点在していた。宿舎の風呂はトイレも兼ねており、ホースを使って冷たい水を浴びた。大部屋に10数人の選手が雑魚寝した。寝ているときに顔の上をネズミが這って、飛び起きたこともある。

「7年で5チームを渡り歩きましたね。今年と去年がチョンブリというパタヤにあるチームです。その前はサラカームに2年いました。2006年がロッブリ。軍隊の敷地で生活していたから、けっこうキツかった。でも、他の日本人選手まで合宿に来たから、外に出されちゃったんです。さすがに軍隊の施設があるところに日本人を入れておくわけにはいかないですからね。あのときはおかげさまで、ハハハ、ホテル住まいになってうれしかった。あれがなかったらずっと豚小屋でしたから」

試合に出る機会も、さほど多くはなかった。それでも毎年のようにタイに渡ったのは、少しでもレベルの高い環境に身を置きたいと思ったからだ。

「ここ数年は、日本人だからという目で見られることがなく、他の選手と同列で評価されてきました。逆に出場機会は減りましたが、それが僕の中ではありがたくて。ようやく認められたという、達成感を味わうことができました」

寺本にとって矢野は、同じ時代を歩んできたライバルであり、よき理解者でもある。意見の衝突もあったが、互いを尊重しているから何でも言い合えた。

矢野が追憶する。

「使命感みたいなものじゃないですかね。寺本が人前で話すのを聞いていると、最近は信念みたいなものを感じます。うまく言えないけど、よくできるなって思うんです。セパタクローをはじめて17年、一日も休んでないんですよ。少しくらい諦めたくもなるだろうし、ごまかせることもある。今のような恵まれた環境でやってきたわけじゃないですから。むしろ、難しい時期のほうが長かった。めちゃくちゃ尊い17年だと思います」

個人のレベルアップに力を注いできた寺本。その一方で矢野は、セパタクローの普及と日本代表の強化に尽力してきた。

■渋谷、大阪で開催された夢のイベント

思い描いた夢が、大きな形で実現した。2008年3月10日、セパタクローのエクスリームイベント【蹴-kelu-JUST FLY HIGH】が開催されたのだ。仕掛けたのは、ほかならぬ矢野自身である。綿密な準備を重ねてきた。場所は渋谷のライブハウス。小さなフロアに敷いたセパタクローのコートが、ガチンコの勝負を繰り広げる舞台となった。

ホールには200人の観客が立錐の余地もないほど詰めかけた。初めてスポットライトを浴びたメンバーは演者になり切った。ダイナミックなアタックを強調するために、寺本はいつもより高く跳んだ。矢野も一時的にコートに復帰し、美しいローリングアタックを披露した。ある者は髪を赤く染め、ある者は拳を突き上げて観客にアピールした。

盛大な歓声が飛んだ。MCのマイクパフォーマンスが、熱狂を後押しした。鮮やかなカクテル光線がコートの上を照らした。誰もが初めて味わう恍惚の時間だった。

寺本の抑揚が上がる。

「声援が日本語でしょう。だから、このプレーは自信を持っていいんだと思ったり、ミスをしたら白けた反応が返ってくるのがわかるんです。今まで自分の中からでしか発動できなかったモチベーションを、外部から与えてもらうきっかけになりました」

技術力を上げる意味でも、予想以上の効果をもたらしている。コートから客席までは1メートルも離れていない。レシーブを弾こうものなら、ボールはあっという間に客席に飲み込まれた。何よりも正確性が要求されるため、選手の集中力は最大限まで研ぎ澄まされた。

2009年には渋谷を飛び出して、大阪でも開催された。関西テレビの尽力でテレビ中継もされている。元Jリーガーや芸能人も観戦に訪れた。継続的な開催と周囲の応援によって、【蹴-kelu-JUST FLY HIGH】に出場することは選手の矜持になった。

■幕を開けた広州アジア大会

11月12日。

広州アジア大会が幕を開けた。北京五輪の記憶を呼び覚ます、華々しい開会式だった。大量の花火が夜空を鮮やかに染めた。600メートルのテレビ塔も華やかにライトアップされた。45カ国・地域から1万人を越えるアスリートが集い、過去最多の42競技476種目がスタートした。

4度目のアジア大会を迎える寺本も、特別な思いでこの日を迎えていた。

「ああしておけばよかった、というのをゼロにして大会に入ることが目的でした。青臭いかもしれないけど、夏以降の合宿でチームの絆が深まりました。何度もミーティングをして、チームとして勝つために何が一番必要かに重点を置いてきた。9人全員が強くなるために。一人の苦しみが自分たちの苦しみになったし、一人の喜びが自分たちの喜びにもなった。だからこそ、寺島のお母さんが亡くなったときもみんなで苦しんだし、彼がチームに帰って来たときはみんなが勇気づけられた。もちろん、寺島と同じ気持ちにはなれません。でも、そういう思いがみんなに芽生えた結果、同じ方向を向いて戦えたんだと思います」

セパタクローは16日に初日を迎えた。各国3つのレグが出場する団体戦は、日本がメダル獲得を切望してきた種目である。先に2勝したほうに白星が与えられる。8カ国が2つのグループに分かれて4カ国ずつの総当たり戦を行い、上位2カ国がノックアウト方式の準決勝に進出する。セパタクローは3位決定戦がないため、グループリーグを勝ち上がれば自動的に銅メダル以上が決定する。

日本と同じグループには、インド、マレーシア、中国が入った。初戦の相手は格下のインド。不気味さはあるが、確実に白星を計算できる相手である。

■記憶から消し去りたい惨敗

第1試合。

しかし、日本のスタートは最悪だった。

アタッカー=林雅典

サーバー=中塚智之

トサー=松田祐一

一つのプレーが流れを変えるのが、ラリーポイント制の怖さだ。不用意に放った中塚のサーブが大きくエンドラインを越えると、ペースがインドへ移行した。4本連続でサービスエースを決められて8?11。終わってみれば13?21の惨敗だった。第2セットもわずか12点しか奪えなかった。自滅に近い敗北だった。

記憶から消し去りたい。そう振り返ったのは松田だ。

「相性が悪かったですね。フェイントを打っても、速いサーブを打っても、全部取られてしまった。自分たちは前後に揺さぶるのが得意なはずなのに、それができていませんでした」

油断もあった。連続失点のきっかけを作ったサーバーの中塚は、「自分がやりたいサーブじゃなかった」と言った。

「緊張があったのかもしれない。負けちゃいけないのもわかっていた。勝って当たり前だった。そのプレッシャーもだんだんと……。格好悪いと思っちゃったのかもしれません」

相手に先行されても、いつか追いつけるだろうと思っていた。「あれ? おかしいな、おかしいな」。いつの間にか点差は広がり、気が付いたら負けていた。

この試合を振り返るときの矢野の口調は、いつもより苦々しくなる。

「あんなの見たことがない。気持ちにスイッチが入っていなくて、喜怒哀楽がまったくなかった。得点が入っても喜ばないし、失点しても“しょうがないか”みたいな感じ。そのままダラダラいって、何の熱意も感じられない試合になった」

いきなり追い込まれた。日本は残りの2試合を勝たなければいけなくなった。

■「母親が力を貸してくれた、そう感じました」

第2試合。

アタッカー=寺島武志

サーバー=飯田義隆

トサー=本橋淳

寺島が広州に入ったのは、13日の夜だった。他のメンバーから4日遅れてのことである。通夜と葬儀を終えて母を見送り、開会式の翌日に羽田空港に着いた。調整は実質2日。けっして万全なコンディションではなかった。

それなのに、寺島のプレーは冴えていた。相手のサーブに対する反応が早く、レシーブが安定していた。床を蹴る右足にも弾力があった。左足を振り下ろす反動を利用して、高い打点から強烈なアタックを叩き込んだ。なによりこの試合にかける集中力が凄まじかった。

「正直、不安もありました。でも、調子がすごくよくて。この試合、アタックを1本もミスってないんですよね。母親が力を貸してくれた、そう感じました」

日本には、この大会のために練り上げてきた作戦があった。長く濃密なミーティングから生まれた作戦、それは相手にフェイントを“出させる”ことだった。

たとえば、高さ。日本のトッププレーヤーでさえ、アタックの最高到達点は240センチが限界だ。しかし、世界には270?280センチも跳ぶ選手がゴロゴロいる。ネットの高さはバドミントンと同じ1.55メートル。そんな高い打点から時速120キロのアタックをまともに打たれては、レシーブすることなど不可能に近かった。

経験に導かれた理論。寺本が言う。

「可能性があるとしたらフェイントなんです。でも、フェイントは相手のプレーを先読みしないと取ることができません。1試合に1本も打ってこないかもしれない。でも、逆に1本でもフェイントがあれば、それを絶対に取るという練習をひたすらしました」

ブロックは1人で跳ぶのがセオリーだ。それに対して日本は2人が同時に跳び、残る1人がブロックの真下で構えた。少しでも相手のアタッカーに威圧感を与えるためである。だが、レシーバーが前進すれば、その分だけコートの後方には大きなスペースができる。相手はそこをフェイントで狙うだろう。そのボールを確実につなげることが、日本の作戦だった。

狙いは見事に的中した。飯田は本来の強烈なサーブを封印し、ふわりと相手の足元に落とした。サーブの滞空時間を利用してすばやく前進し、寺島と背中を合わせて2枚でブロックに跳んだ。本橋はギリギリまで前進して、相手のフェイントに備えた。虚を突かれたインドのアタッカーは、ことごとくミスを犯した。中途半端な体勢から放たれたアタックは、コートのはるか外に落ちた。

日本は第1セットを21?17でものにすると、続く第2セットは相手に14点しか与えなかった。完璧な試合運びで、1勝1敗のタイに持ち込んだ。

スタンドが沸いた。スティックバルーンが揺れた。流れは完全に日本だった。ボルテージは最高潮に達した。

■初戦の惨敗を帳消しにする価値ある逆転勝利

第3試合。

アタッカー=寺本進

サーバー=山田昌寛

トサー=高野征也

この大会で寺本がパートナーに選んだのは、いずれも初出場の2人だった。

21歳の高野は、元号が平成になった翌日に生を受けた。寺本とは縁が深い。同じ山陽高の出身で、寺本がドーハアジア大会の前に母校で講演をしたのをきっかけにセパタクローを知った。サッカーで大学に進むが、「何かを変えたい」と一念発起。ブログを通じて寺本に連絡を取り、本格的にセパタクローに転向した。

一緒にレグを組んだのは8月の世界選手権からである。そもそも国際大会にデビューしたのも半年前のことだ。アタッカーが打ちやすいトスを上げる。コートでの明るさと闘争心が一番の売り。なにしろ若い。

「寺本さんは日本を代表するアタッカー。お互いの共通意識も明確にあり、何でも決めてくれるからすごくトスを上げやすい」

寺本が高野の潜在能力を引き出したのか、それとも高野が寺本の特徴を生かしたのか。いずれにせよ、2人の相性はぴったりだった。

サーバーの山田も、アウエーの雰囲気に怯まなかった。【蹴-kelu-JUST FLY HIGH】の経験が生きた。中国語の歓声を、自分への声援に置き換えた。胸のうちには、最終選考で漏れた4年前の思いがあった。

「代表に選ばれなかった人も含めて、このチームでメダルを取りたい気持ちが強かったんです。緊張もなく、前の試合のことは考えずに臨めました。むしろ、ここで一本取ってやろうというイメージで、自分のプレーを出すことに集中することができました」

第1セットは日本が終始ペースを握った。多少レシーブが乱れても、寺本が落ち着いて決めた。11?7でテクニカルタイムアウトを迎えると、その後も集中力を切らさなかった。寺本のアタックには高さがあった。山田のサーブもよく決まった。第2セットに入るとインドはメンバーを代えてきたが、3人の歯車が乱れることはなかった。最後は寺本のシザースアタックが相手のブロックを弾き、ストレート勝ちを決めた。

2勝1敗。初戦の惨敗を帳消しにする価値ある逆転勝利だった。

■他に何も望みません。メダルだけは――

翌日のマレーシア戦も粘り強く戦った。世界2位の強豪を相手に、果敢に攻めた。破れはしたが、中国との最終戦に向けて確実に手応えをつかんでいた。

11月18日は日本のセパタクローに携わる者にとって、忘れられない日となった。グループリーグ最終戦の相手は中国。ともに1勝1敗。勝ったほうが準決勝に進出する。

寺本、山田、高野のレグが先勝した。試合を決めたのは林、中塚、松田のレグだった。大会に入ってまだ一勝も挙げていないレグが、大事な場面で大きな仕事を成し遂げた。

中塚はインドに敗れた夜、枕を頭からかぶって泣いた。眠れなかった。鏡を見て驚いた。髪に白いものが交じっていたからだ。

≪神様、他に何も望みません。メダルだけは取らせてください≫

祈りは通じた。

試合が終わった瞬間、中塚は拳を突き上げて溜め込んだ喜びを発散させた。林も破顔した。プレッシャーから解放された松田は、こぼれ落ちる涙をシャツでぬぐった。

スタンドでまっさきに目を赤く染めたのが矢野だった。一番前まで歩み寄り、身を乗り出して一人ずつ抱きしめた。先に試合を終えた寺本も、こらえ切れず両手で顔を覆った。矢野の涙に呼応して、スタンドに涙の波紋が広がった。

矢野の脳裏には、過去の記憶が蘇っていた。日本にセパタクローが伝えられたころ、憧れの先輩と一緒にタイで武者修行した。ラオスとの国境にある村で、何週間も寝泊まりした。地元の子どもたちと、コンクリート敷きのコートでボールを蹴った。小さな町のローカル大会にも、飛び入りで参加した。

「でも、みんな下手くそなんです。当時はそれでも国内のトップだったんですけどね。あれ、本当にしょうもなかったなあ」

自虐的な笑顔は、すっきりと輝いていた。ともに胎動の時代を歩んできた寺本と目が合うと、どちらからともなく握手を交わした。

日本のセパタクローが新たな歴史を刻んだ瞬間だった。

■一生分の涙を流した瞳に宿った新たな光

2010年。冬。

北千住の喫茶店では、主婦のおしゃべりが続いていた。フロアの一番奥の席は、そこから死角になっている。寺島はソファに深く腰を沈め、テーブルに両肘をついたまま手で顔を覆っていた。店内にはジングルベルの軽快なメロディが流れている。わずかに残ったグラスの氷が、カラリと音を鳴らした。

嗚咽が漏れていた。

悔しいと言ったらあれですけど……。かすれるような声を絞り出した。

「広州にいる間は、母の死を受け入れている部分と非現実的な部分の両方があったんです。でも、帰国して母にメダルを報告したときは、思い切り現実感のほうを食らいましたね。メダルを首にかけてあげたら、どんな表情を見せてくれたんだろう。どんなことを言ってくれたんだろう。その反応が見たかったし、それができないことが悲しかった」

帰国した寺島の元には、いくつかの朗報が舞い込んできた。スポーツブランドの広告モデルに起用され、躍動感のある肢体がカタログを飾った。大手時計メーカーからは広告キャラクター・開発アドバイザーに抜擢された。母の死を綴ったブログを見た担当者が、直接メールを送ってきたのである。競技生活をサポートしてくれる味方をつけたことで、また一歩、4年後のアジア大会に向けて前進した。

「今回のアジア大会は今までにない経験だったし、大きな成果だったと思うんです。大会が始まる前からしっかりと準備してきたし、結果も残すことができた。これが礎になって、また積み重ねていくという意味ではすごく価値があります」

日本のセパタクローは変わるのか。その結論を出すのは、まだ早いのかもしれない。

産声を上げたばかりの競技にとって、アジア大会のメダル獲得はむしろ始まりに過ぎない。たしかに、それに賭けた男たちの積み重ねが実を結んだ勲章であることに間違いはない。鈍く輝くメダルを目にするたびに、誰もが濃密な2週間の出来事を思い出すだろう。

しかし――。

「まだ何も認知されていないから」

一生分の涙を流したというその瞳は、新たな光を宿していた。