「松本山雅、永遠の記憶となった日」 Text 元川悦子 / MOTOKAWA ETSUKO

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福岡の街は、あいにくの雨に見舞われた。

2014年11月最初の3連休の初日。不安定な天候にもかかわらず、九州最大の都市には、緑のユニフォームを身にまとったサポーターが大挙して押しかけた。

松本山雅FCの記念すべきJ1昇格が決定するかもしれない大一番、J2第39節・アビスパ福岡戦が行われたからだ。

キックオフは19時4分。すでに、熱狂的なサポーターたちは早い時間からレベルファイブスタジアム(旧博多の森球技場)に続々と詰めかけていた。土砂降りの雨が降りしきる2?3時間前から、ゴール裏は異様な熱気に包まれた。

この日、同スタジアムに押し寄せた山雅サポーターは1216人。2014年J2開幕戦・東京ヴェルディ戦の味の素スタジアムに8000人を超える人々が足を運んだのに比べると、やや寂しい印象ではあったが、松本から福岡というのは最も行きにくい土地の1つと言える。直行便は1日1便しかなく、しかも小型機であるため、利用できる人数はほんのわずか。東京や名古屋経由で飛行機や鉄道を使うにしても、相当な手間と時間がかかる。

「J1昇格決定試合がホームゲームだったらよかったのに……」という声が、多くの人々から聞こえてきたほどだ。

そこで、松本商店街連盟が松本市のMウイングでパブリックビューイングを開催するなど、多くの場所で応援の場が設けられた。Mウイングは定員の500人をはるかに超える人々が集まり、その場にやってきた元山雅戦士の片山真人さん(?松本山雅・ホームタウン担当)、小林陽介さん(当時スクールコーチ 現広報)らのチャント(応援歌)まで大合唱されるなど、凄まじい盛り上がりだったという。

こうした周囲の熱気をひしひしと感じつつも、反町康治監督と選手たちは大一番に向けて黙黙と準備を続けていた。

1週間前の10月26日、ホーム・松本平広域公園総合球技場(アルウィン)で行われた第38節・カターレ富山戦を2-1で勝利し、J1昇格に王手をかけた時も、指揮官はあくまでも「普段通り」を強調していた。

「次節で2位確定? そうやって浮ついて、例えばチーム全員で福岡に移動しよう、なんてことはしませんから(苦笑)。いつもの18名を1週間、見て選んで、いつも通りの準備をすると。完璧な準備をする。それだけです」と。

過去にアルビレックス新潟、湘南ベルマーレをJ1へと導いた経験を持つ反町監督は「昇格請負人」の異名を取る男。2008年北京五輪代表を指揮した有名人が歴代最多タイ(小林伸二、石崎信弘監督と並ぶ)となる3度目の昇格一歩手前まで近づいたことで、メディアの注目度は急激にアップした。けれども、本人は一切、プレッシャーを感じていなかった。

「私も歳を取ってきて、階段を上るのに、2?3段、一気には上れないわけですよ。そういう歳になってきたので、チームも同じで、1段1段しっかりと、画びょうとか落ちていないか確認しながら上っていきたい。下る時は早いですよ。ドーンドーンとね(苦笑)。だからこそ、上る時はしっかり登りたいですね」と、記者会見では冗談を口にする余裕も見せていた。

軽妙なやり取りが続く中、百戦錬磨の指揮官は最後の最後に1つだけ、改めて強調したことがあった。

「私が松本をJ1に上げるんじゃなくて、松本が上がるんです。松本山雅が上がるために人生を賭けてやりたいです」と。

全身全霊を込めて応援してくれた人々に精一杯の恩返しをするために、反町監督は福岡戦への決意を新たにしたのである。

こうした指揮官の熱い気持ちを、選手たちもひしひしと感じたに違いない。

3年間、コツコツと地道に積み重ねてきたものを出し切って自力昇格を果たすべく、強い意欲を胸に、博多の地へと飛んだ。

■息詰まる熱戦

試合開始2時間前に発表されたスタートリストは、予想通りの顔ぶれだった。

松本山雅の方は、GK村山智彦、DF(右から)飯田真輝、大久保裕樹、犬飼智也(現清水エスパルス)、右サイド・田中隼磨、左サイド・岩沼俊介、ボランチ・岩間雄大、喜山康平、2列目・岩上祐三、船山貴之(現川崎フロンターレ)、1トップ・山本大貴(現ベガルタ仙台)の3-4-3。5戦未勝利に苦しんでいた9月の第33節・ギラヴァンツ北九州戦からサビアに代えて山本を抜擢し、さらにトンネルから抜け出した10月4日の第35節・横浜FC戦で多々良敦斗(現ベガルタ仙台)と大久保を入れ替えたことで、チーム状態は完全に上向いていた。その流れを維持し、反町監督は5試合連続同じスタメンで、勝負に出たのだ。

一方の福岡も、松本山雅と同様3バックの3-4-2-1。GK神山竜一がゴールマウスを守り、ベテランDF古賀正紘が最終ラインをコントロール。右サイドには反町監督の五輪代表時代に招集したことのあるアタッカーの城後寿、左サイドに2013年シーズンに山雅でプレーした阿部巧が陣取る。そしてU-21日本代表の金森健志とかつてガンバ大阪で活躍していた平井将生が2シャドウ、酒井高徳(シュツットガルト)の実弟・酒井宣福が1トップに入る形だ。個々の実績とタレント力では福岡の方が上回るのは確かだが、この時点での順位は12位。96年から最高峰リーグに参戦した経験を持つ彼らとしては、後発クラブである山雅のJ1昇格決定を是が非でも阻止したかったに違いない。

前半は、山雅が福岡ゴール側に攻める形で、キックオフの時を迎えた。

レベスタは「One Soul」の大合唱。続いて「今日も1つになって、追い求めろ俺らと、信州松本のフットボールを、行け、山雅?」の歌詞で知られる「信州松本フットボール」のチャントがこだまする中、飯田淳平主審が思い切りホイッスルを吹いた。

その笛がまだ鳴りやまないうちに、山雅は不意打ちを見せる。船山からボールを受けた岩上がセンターサークル内からいきなりロングシュートを放ったのだ。3月22日の第4節・カマタマーレ讃岐戦で試合開始後7秒というJリーグ最速ゴールを決めた背番号8には、相手のスキがよく見えたのだろう。これは惜しくも枠を捉えることはなかったが、チーム全体に火をつけるのに十分な一撃だった。

ここから、緑の軍団は勢いに乗って攻めに出る。開始4分には、岩上の好位置でのFKからのこぼれ球を左サイドで大久保が拾い、最終的に船山がペナルティエリア内で受けて右足シュート。GK神山が弾いたところに飯田が詰めるが、わずかに精度を欠いてしまった。最初のビッグチャンスを逃しても、山雅の貪欲な攻めの姿勢は失われなかった。続いて15分には、右CKから飯田が打点の高いヘッドを放ったものの、守護神・神山の好セーブに阻まれる。その後も鋭い出足を見せ、前半25分時点で相手の1本を大きく上回る7本のシュートを打つなど主導権を握ったが、最前線・山本のところでしっかりとボールが収まらなかったこともあって、1点が奪えなかった。

「そんなに硬さはなかったが、最初のチャンスを逃して、少し消極的になってしまった」と反町監督が前半終了時に振り返った通り、前半30分以降はチャンスらしいチャンスを作れなくなった。この時間帯に3位・ジュビロ磐田がジェフユナイテッド千葉から1点をリードしたというニュースも飛び込んできて、記者席に座っていた南省吾・チーム統括本部・テクニカルディレクター(TD)が「今日はちょっと厳しいのかな?」と苦笑するシーンもあった。山雅が引き分け、磐田が勝てば、J1昇格決定は次節9日の千葉戦以降にもつれこむ。新潟を率いていた2004年に、同じ福岡で足踏みを余儀なくされた反町監督は、当時の嫌な記憶が脳裏をよぎったのではないだろうか。

■何度も半べそをかきながら……

豪雨といってもいいほど雨足が強まったところで前半終了。山雅としては、いかにして、山本のところでボールを収め、田中隼磨や岩沼の両サイド、あるいは喜山らボランチが高い位置を取れる時間を稼ぐのかが最大の修正点だった。前線でのインテンシティー(機動性)を高めなければ、ゴールはこじ開けられないからだ。

そのキーマンである山本は、5月24日の第15節・ジュビロ磐田戦で2012、2013年と2シーズン連続2ケタ得点を挙げていた塩沢勝吾が左アキレス腱断裂の重傷を負ったことで、急きょ、ベガルタ仙台からやってきた選手である。Jリーグは2013年から、18?23歳の選手が所属クラブより下位リーグのクラブへ行く場合に限って移籍期間外のレンタル移籍を認めており、その枠に該当したのが彼だった。

熊本・ルーテル学院高校時代は全国高校サッカー選手権大会で得点王に輝き、駒沢大学時代も1年時から試合に出ていたものの、2014年に加入した仙台はウイルソンや赤嶺慎吾(現ガンバ大阪)、柳沢敦(現鹿島アントラーズコーチ)、武藤雄樹(現浦和レッズ)とFW陣の選手層が厚く、出場機会を得られずにいた。そこで松本からのオファーを受けることになったわけだが、主に求められたのは、得意の裏への飛び出しではなく、体を張って前線でターゲットになる役割だった。極めてシンプルではあるが、不慣れなプレーだけに戸惑いは隠せない。その山本に反町監督は週1?2回ペースで特別練習を課した。

「やらせたのは、単なるクサビのボールをアーリーヒットして時間を作るってことだけ。最後はシュートまで持っていかせたけど、高校生でもやっているような普通の練習だ。山本はもともと1トップじゃなくて、セカンドトップの選手だから、これまでそういう仕事を求められたことがなかったんだろうな。確かにスペースを見つけて入りこむ力、ヘディング力、シュート力もあるけど、ウチではそれをやってもらわないと試合には出せない。そこは割り切って対応したよ」と指揮官は狙いを打ち明けた。

当の本人は、トレーニングの厳しさに音を上げそうだった。何度も半べそをかきながら、指示された通り、体を張ってクサビを落とす。本人の中では少なからず葛藤もあっただろうが、無心になって繰り返した結果、サビアからスタメンの座を奪うところまで来た。が、肝心の大一番で、自分が試合の流れを止めてしまっている……。真面目な山本は自責の念にかられていたに違いない。

気合を入れ直して迎えた後半。山雅サポーター側に攻めることで勢いをもらった選手たちは前半よりも動きがよくなった。山本のタメを作るプレーも改善が見られ、ゴールが近づいている印象が強まった。反町監督も少なからず手ごたえをつかんだことだろう。

迎えた後半12分、山雅を取り巻く全ての人々が待ち望んだ瞬間が、ついに訪れる。

田中隼磨のロングフィード(前線への長いパス)を、山本がしっかりとヘッドで競ってボールを落とした瞬間、エースナンバー10・船山は、堤俊輔の中途半端な処理によってこぼれたボールに鋭く反応。守備陣の背後へと飛び出し、ペナルティエリア右側のフリースペースへ侵入した。そこに阿部巧が猛然と寄せてきたが、彼は迷うことなく右足を一閃。再三再四、立ちはだかってきた神山をあざ笑うかのような見事なシュートを決め、先制点を手に入れたのだ。

正確なフィードを上げた隼磨、クサビ練習で強さを身に付けた山本の落とし、そして船山のフィニッシュのキレと正確さ……。どの要素が欠けていても、絶対に手に入れることができなかった値千金のゴールに他ならなかった。

ベンチのスタッフも飛び上がって喜び、全選手が飛び出して船山を祝福する。

「止まらねえ、俺たち松本。暴れろ、荒れ狂え。ラララー、ララー、ラララー。叫び(オイ!)歌え?」

得点時の定番チャント「See Off」が大音量でこだまするゴール裏で歓喜の雄叫びを上げ、村山の第1子誕生を祝うゆりかごダンスを披露した彼は、最高の気分を味わっていたことだろう。

■かつて日の丸を背負った男が誓った松本での再出発

船山貴之というのは、少年時代から「天才」と呼ばれた選手だ。柏レイソルのジュニアユース時代には、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会で優勝し、2002年にはU-15日本代表、2003年にもU-16日本代表候補に名を連ねたこともある。だが、柏ユースからトップへの昇格が叶わず流通経済大学へ進み、2010年にJ2の栃木SCへ入団することになった。けれども栃木では、当時指揮を執っていた松田浩監督(現JFA・S級インストラクター)から厳しい評価を下され、2010、2011年ともにわずかな出場機会にとどまっている。その結果、2011年7月に当時JFL(日本フットボールリーグ)を戦っていた山雅へレンタル移籍することになった。

かつて日の丸を背負った男にとって、3部リーグ行きは、相当の覚悟が必要だったはず。それでも、船山は「ここでダメなら自分のサッカー人生はもう終わる」という強い危機感を持って、松本の地でゼロから再出発することを誓った。

その意気込み通り、2011年のJFLからJ2昇格への立役者になった。けれども、2012年の反町体制発足直後はまだまだ未知数な存在として位置づけられていた。現に開幕の東京ヴェルディ戦では先発出場していない。当時の彼はまだ指揮官の信頼に足るに至らない部分があったのだ。

「貴之は正直、いい加減なところがある。最初はフィジカルテストの数値も低かった。だけど、サッカーに対してはきちんとやる。時間を追うごとにそれが分かってきた」と反町監督も繰り返しコメントしたが、彼は自身を客観視し、山雅基準に満たなかった走力や守備力を意欲的に高め、集中力を上げることに徹した。その積み重ねによって、前線から献身的にプレスに行き、ゴール前でも持ち前の怖さを出せる本物のフィニッシャーへと劇的な変貌を遂げた。誰よりも得点に固執していなければ、3年連続2ケタゴール、しかも勝負の2014年の19得点という結果は残せなかったはずだ。

彼のフィジカル面の向上に一役買ったエルシオ・ミネリ・デ・アビラ・フィジカルコーチも、船山の賢さを絶賛していた。

「私は人間として、仕事仲間として、選手の状態をよくしてあげたいと常に考えている。この3年間、貴之を見てきたが、彼は横にいる選手が何を言われているのかをしっかりと見て、自分が何をすべきかを考えることができたのだと思います。

例えば、4隅にマーカーを置いてランニングするとしたら、隼磨みたいに最初から外をしっかり回って走る選手とそうでない選手がいる。貴之のように自尊心の高いタイプに対し、頭ごなしに『お前、外を回らないとダメじゃないか』と言えば、『そんなのどうでもいいじゃないか』と返してくる可能性が高い。でも、逆に何も言わないことで、彼は自分から周りを見回して、どうするべきかをきちんと察知し、改善する。それができる貴之は、本当に理解力が高いなと感心することが多かった」と。

こうしてエースに君臨した男が、貴重な1点を奪った山雅は、勝利に一歩近づいた。それに対し、福岡は後半16分、酒井に代えて坂田大輔を投入。前線のテコ入れを図ってきた。ここでチーム全体の引き締めを図ったのが、ベテラン・田中隼磨だ。すかさず山本のところに歩み寄り、愛のビンタで気合を入れる。このシーズンに何度も見られた光景ではあるが、ピッチ上にいる全員がこれで緊張感を取り戻したのは確かだ。

2013年末に5シーズンを過ごした名古屋グランパスから「ゼロ円提示」という屈辱を突きつけられた田中隼磨は、「自分には緑のユニフォームを着て、戦っている姿しか想像ができなかった」と故郷・松本へ戻ってきた。15歳で横浜フリューゲルス(当時)の下部組織の門を叩き、横浜F・マリノスと名古屋のJ1制覇の原動力となり、2006年にはオシムジャパンで国際Aマッチにも出ている男も、船山同様、下部リーグでプレーすることへの葛藤はどこかにあったのではないか。

それでも「俺は山雅を上げるために戻ってきた」とシーズン当初から悲壮な決意を口にし、周りを鼓舞し続けてきた。若い犬飼が中途半端なプレーでミスをするたびに容赦なく怒鳴りつけ、強い姿勢で改善を促す。「隼磨がピッチ上でいろいろ言ってくれるんで、自分は何もしなくてよくなった」と反町監督も彼のリーダーシップに敬意を払っていた。

この日まで決して明かすことはなかったが、実は塩沢が負傷した磐田戦で、彼も右ひざ半月板を損傷。試合を重ねるごとに痛みが増し、プレー続行が危ぶまれる状態にまで陥っていた。それでも平静を装ってピッチに立ち続け、ひたむきに昇格だけを追い求めてきた。反町監督も「隼磨を休ませたいから、とにかく早く昇格を決めたかった」と本音を打ち明けるほど、彼は手を抜かなかった。そういう先輩の真摯な姿勢は、若く発展途上の選手たちに多大なる影響を及ぼしたに違いない。

田中隼磨の愛のビンタに山本はしっかりと応えた。後半26分、一気に攻めあがった岩上からのスルーパスを船山がDFと交錯しながらワンタッチし、そこに山本が走りこんだ。ペナルティエリアぎりぎりの難しい位置ではあったが、彼はまたも阿部がスライディングタックルしてきたのをものともせず、豪快に左足を振りぬいてネットを揺らした。「今日の自分は全然ダメ。やったのはゴールだけ」と本人は最後まで低姿勢を貫いたが、この1点が最終的に勝負を分ける決勝弾になった。

その間、磐田対千葉戦の方も動いていた。山雅の1点目が入る前に千葉が同点に追いつき、船山の先制弾直後には逆転ゴールも生まれたが、山本の2点目のすぐ後に今度は磐田が得点。2-2にもつれていた。磐田が勝つ可能性も残されていたが、もともと山雅勝利なら自力でJ1切符を手にできる。その瞬間は刻一刻と迫っていた。前半は険しい表情を浮かべていた南TDもJ1昇格決定を確信したのか、安堵感をにじませつつあった。

■松本山雅の「One Soul」たるゆえん

後がなくなった福岡は怒涛の攻めを仕掛け、後半33分に平井がスピーディーなドリブル突破から大久保のファウルを誘って、首尾よくPKを奪う。これを堤が決め、試合は1点差となった。残り時間は10分以上あったが、山雅はブレることなく自分たちのスタイルを最後までやり抜こうとする。「Jリーグの中で一番厳しい練習をしてきた」と指揮官が言い切る体力的ベースは苦しい状況でこそ生かされる。山雅の選手たちは無尽蔵のスタミナを見せつけ、前からボールを追い続け、鋭い切り替えから敵陣に迫った。

常日頃から手堅い采配を見せる反町監督が重い腰を上げたのは後半41分。2ゴールに絡んだ山本に代えて、大型FW棗佑喜を投入するという決断だった。棗も2014年から山雅にやってきた選手だが、ケガ続きでほとんど出番を得られずにシーズン終盤を迎えていた。これまで長きにわたって過酷なトレーニングを乗り越え、J1昇格試合に出場することを夢見ていた選手が数多くいる中、彼がこの重要な局面で送り出されたのは極めて幸運と言える。だからこそ、やるべき仕事はキッチリとこなさなければいけない。試合勘や周囲との連携が不足がちな彼をサポートしようと、田中隼磨はすぐさま駆け寄って「時間を考えて動け。前からボールを追え」と的確なアドバイスをする。こうした周囲の配慮によって、棗は思う存分、ピッチを駆け抜けることができた。

2-1のまま、試合は4分のロスタイムへ突入。指揮官はそこでもう1枚の交代カードを切る。まだ北信越リーグ1部を戦っていた2009年6月に山雅にやってきて、全国地域サッカーリーグ決勝大会、JFL、J2を戦い抜いた生き証人・鐡戸裕史を、船山に代えて起用したのである。

「フナにはホント申し訳なかった。あいつ、メチャ怒ってた。逆だったら俺も絶対に怒るから」と鐡戸が恐縮した通り、先制点を挙げたエースは険しい表情を浮かべてベンチに下がり、口を真一文字に結んでじっと戦況を見つめていた。船山は日頃からあまり感情を表に出さないが、昇格決定の瞬間をピッチで味わいたいと誰よりも強く願っていたはずだ。それを承知したうえで、反町監督は鐡戸との交代に踏み切った。船山のフォア・ザ・チーム精神への信頼、これまで山雅の苦しい時代を支えてくれた鐡戸ら多くの選手たちへの感謝……。その両方があったからこそ大胆な采配を振るったのだ。

背番号16の登場を、遠い秋田からテレビで見ていたかつての山雅戦士・今井昌太(当時ブラウブリッツ秋田 現サウルコス福井)は、ともに戦った時代に思いをはせていた。

「最後にてっちゃんが出てきたのは本当に嬉しかった。てっちゃんは『生き残り兵』。僕らの代表だから」と、彼はしみじみ語ってくれた。

鐡戸や今井が北信越リーグやJFLを戦っていた頃、山雅の選手たちは働きながらプレーするのが当たり前だった。実際に鐡戸は松本平広域公園の施設管理をする「TOY-BOX」、今井も市内にある日帰り入浴施設の「おぶ?」でアルバイトをしていた。午前中に練習、午後から仕事、深夜に体のケアをするという生活は実にハードで、選手たちは限界に近いところまで追い込まれていた。それでも「いつかJリーグに上がるんだ」という強い意志を持ち続けた。2009年の全国社会人サッカー大会優勝、地元・松本での地域リーグ決勝大会決勝ラウンドでのJFL昇格決定に始まり、JFL2年目だった2011年の松田直樹急逝と逆転でのJ2昇格と、さまざまな紆余曲折を経てこられたのも、苦しい時代を支えてくれた選手やスタッフの努力があってこそ。過酷な生存競争にさらされ、山雅を去り、ユニフォームを脱ぐことになった選手にしてみれば、右肩上がりに成長していく古巣を目の当たりにして、複雑な思いにかられたこともあったはずだが、それでもかつての仲間たちは鐡戸の登場を心から喜んでいた。

それこそが、松本山雅の「One Soul」たるゆえんなのだろう。

時計の針が後半49分を越え、岩上がFKのボールを蹴った瞬間、飯田主審のホイッスルが鳴り響いた。岩上がピッチ上に倒れこみ、田中隼磨が「松田直樹」と書かれたインナーシャツ姿になって号泣し、キャプテン・飯田と鐡戸が笑顔でガッチリと抱き合う中、スタジアムに湧き起こったのは、「One Soul」の大コールだった。

そして「勝利の街」の大合唱も始まった。

「松本、俺の誇り?。勝利の道、行く街?。さあ、行こうぜ、緑の友よ?。遥かなる頂へと、おお?!」

あれほど激しかった雨は止んでいた。

雨上がりの福岡で耳にした、熱い熱いサポーターの大歓声を、反町監督も選手たちも生涯、忘れることはないはずだ。

■ここからが本当の戦い

「天国にいる松田と、先日の御嶽山の事故で亡くなられた野口さんが抱き合っていると思うと、嬉しくて仕方がありません。

我々チームとしては3年前を振り返ると届かぬ夢というところからスタートして、1日も休むことなく努力してきた結果、このように成果として表れることを非常に嬉しく思っています。我々スタッフも本当に努力しましたけど、移動の際、てまりバスの運転手さんには疲労困憊のところを運転してもらって感謝していますし、市営グラウンドのスタッフさんには大雪の時、朝早くから雪かきをしていただきました。アウェーにもかかわらず、遠く松本からお金と労力をかけてここまで来て、我々に声援を送ってくれたサポーター。今日はここに来られませんでしたが、いつも大声で応援してくれているサポーターにも感謝してもしきれないです。……何かアカデミー賞の挨拶みたいになってしまいましたね」

大願を成就させた指揮官は、いつも以上に饒舌だった。ただ、2003年の新潟、2009年の湘南に比べて、山雅の先行きがより厳しいことを実感しているせいか、非常に冷静な一面も垣間見せた。

「泣かなきゃいけないのなら泣きますけど、泣いて感傷的になるよりも次のことを考えないといけない。来季のことも考えないといけない。J1とJ2は全く違う国のリーグだと思いますので、このままでは今の声援が野次に変わるんじゃないかと心配です」と。

こういう発言が出たのも、湘南時代にたった1年でのJ2降格を余儀なくされた苦い過去があるから。2010年に10年ぶりにJ1の舞台に戻った湘南は、3勝7分24敗の勝ち点16でダントツの最下位に沈んだ。特に際立ったのが、シーズン通算82という失点の多さだ。当時の湘南と今の山雅はメンバーも戦い方も異なるが、選手層の薄さという問題は共通している。

「ここからが本当の戦い」と田中隼磨も口を酸っぱくして言い続けている。松本山雅の真価が問われるのはここからである。

その「未知の世界」に突入する前に、この3年間で反町監督が導いた「山雅スタイル」がどのように築かれたのかを振り返っておくことは重要だ。

その歩みを今一度、ひも解いてみることにする。

(初出:「勝利の街に響け凱歌・松本山雅という奇跡のクラブ」序章)