第9回 AJPS AWARD 2015

第9回 AJPS AWARD 2015「臼井二美男」氏に決定!

■受賞理由 「スポーツ用義足開発の第一人者として長年に渡る研究と努力により、多くのアスリートに再び走る歓びを提供し、夢や希望を与え続けている臼井氏の活動は日本スポーツ界にとって大きな功績である」として選出されました。

臼井二美男(うすいふみお)

公益財団法人鉄道弘済会義肢装具サポートセンター 義肢装具士
1955年8月28日、群馬県生まれ。大学中退後、1983年より公益財団法人鉄道弘済会・東京身体障害者福祉センター(のちに義肢装具サポートセンターに改称)に勤務。
現在、義肢装具研究室長 義肢装具製作担当課長を務める。1989年より通常の義足に加え、スポーツ用義足の製作を開始する。
1991年に切断者のスポーツクラブ「ヘルスエンジェルス」を創設。代表者として義足を装着してのスポーツを指導する。2000年のシドニーパラリンピックより日本選手団のメカニックを担当する。

 

第9回AJPS AWARD 2015 授賞式

6月3日(金) 18:00より渋谷東武ホテル 鳳凰の間において、第9回AJPS AWARD 2015 授賞式を開催。臼井二美男氏に、当協会会長水谷より記念の写真盾が手渡されました。

 

臼井二美男 氏ご挨拶

本当にありがとうございます。こういうところで、心の準備ができていませんが、先ほどまで青い作業服を着ていて、それを脱いで、これを着てそのまま来ました。作業をしてまして、このまま明日ジャパンパラリンピックに、新潟県に行かなくてはいけないんです。今日の夕方、選手と一緒に新潟入りして。今日はちょっとだけ早くお暇しなくてはいけないのですが、本当にありがとうございます。

実は、僕は写真は結構撮っているんですね。選手が初めて来た時とか、リハビリをしている時とか、初めて大会に出場してグラウンドに立った時とか、練習の時にも結構、撮ったりしています。それを選手ごとに分けてます。今、そういう人だけで150人くらいですね。
選手が少しずつスポーツをやるようになって、もう、27年くらいは経っているんですが、長くやっていると、最初は義足で走れる人というのはゼロだったんですね。今では100人を超える”義足で走れる人”がいます。

去年60歳になりまして、うち(鉄道弘済会)にはあと5年はいられるらしいんですね。ちょうど2020年まで。でも、結構元気なんですよ。朝7時半に会社に行きまして、だいたい毎日夜9時か10時まで。一番早く行って、一番遅くまでいる、いや〜な上司です。でも、32年間、会社にいますが、病欠はゼロなんです。体調を崩して会社を休んだってことはゼロなんですね。そう考えると親からいただいた健康体は役立っているのかなと思います。

今度9月に(リオデジャネイロ)パラリンピックが始まりますが、日本の選手、陸上ばかりじゃなくて、トライアスロンとかアーチェリーとか、そういう競技にも(義足の選手が)出ると思います。応援、よろしくお願いいたします。今日は本当にありがとうございました。


壇上インタビュー  (インタビュアー:宮崎恵理)

宮崎/これをご覧になっていただくとお分かりになるかもしれませんが、これは臼井さんのトレードマークのウエストポーチなんです。工具が入っていまして、競技会場で選手がちょっと調子が悪い、なんてことを言いますと、臼井さん、このポーチからドラえもんのポケットみたいに工具を取り出して、どれどれってチョコチョコって直しちゃうんです。どんな選手のどんな不調も直してしまいます。パラリンピックの会場で活躍するポケットです。もともと、臼井さんご自身は義手や義足をお使いになっているわけではない。手に職を考えた時に、義肢装具士だった。その着眼のきっかけは何だったのですか。

臼井/僕は28歳までアルバイト、今で言うフリーターみたいな感じでずっといろいろな仕事をしてました。大学進学で東京には出て来てたのですが、途中で中退ではなく除籍になっちゃったんですね。お金払わなくて。その後ずっとアルバイトをしていて。でも、やっぱり手に職をつけたいと思って職業訓練校でどんなことができるか探していたら、義肢科と言うのがあったんですね。

義肢って聞いて、ずっと忘れていたんですが、自分が小学6年の時に担任の先生が、22歳で大学を出て初めて僕たちのクラスの担任になった先生が、その年に、今で言う悪性腫瘍、ガンで足を切断するために入院してしまった。それで僕らが卒業する頃に退院して、杖をついて学校に来て、大腿切断と言って膝上で切断しているんですが、その時に先生がパンタロンの上から触らせてくれたんです、義足に。その時のことを、思い出して義足を作る仕事をやってみようかな、と思ったわけです。それで28歳から、今に至ったわけです。

宮崎/義足で走ると言う概念が当時はなかった中で、臼井さんが走るスポーツ用義足に着目されたのは何かきっかけがありましたでしょうか。

臼井/最初は義肢装具士の学会誌みたいな海外の雑誌とかに写真が載っていたんです。アメリカとかオーストラリアとか、パラリンピックに選手が義足で走っている写真が出てたんです。それを見て、自分の周りの若い人はこういうことをしている人はいない。アメリカ、カナダ、オーストラリアの選手とかが義足でそういう大会に出てる。

ちょうどその頃、自分の担当の20代の子に「走れる?」って聞いたら、「誰も走れない」って。「走りたいけど、そういう義足も持っていないし、走ったらすぐに壊れてしまう」って言うんです。実際に、調べてみたら誰も走った人はいなかった。それで研究費のようなものを申請して、1人分だけの走る用の義足をアメリカから取り寄せて始めたんです。

宮崎/そういう中で今や100人からの義足の選手が活躍していますが、”走る義足”の開発について、臼井さんが一番心がけていることはどんなことでしょうか。

臼井/多分、ものを作るということにおいて、僕は絵が上手だとか手が器用だとか、そういうタイプではないんです。さっきいろいろな選手の写真が出ましたが、どの人も最初はあんな風に走れないんです。多分、誘導してその人をその気にさせて、一緒に義足を作っていく、みたいな感じなんです。どっちかというと、ものづくりというよりも ものを作りながら気がついたら(義足の人が選手に)なっている、というような感じなんだと思います。

宮崎/臼井さんはヘルスエンジェルスという義足のランナーのためのランニングクラブを作っていて、そこでは選手だけではなくて、おじいちゃんとか小さいお子さんとか事故や病気で義足になった人に寄り添って走ったりしてますよね。

臼井/そうですね。今、小学校低学年くらいから72歳までの人がいます。やりたい人は誰でも受け入れないと。だいたい30人くらいの人を見ていると、そのうちの1人くらいは選手になっていくような感じです。やればやるほど、手をかけていきたくなるような感じですね。

宮崎/もうすぐリオのパラリンピックがありますし、4年後には東京パラリンピックも開催されます。臼井さんが注目されている選手などはいらっしゃいますか。

臼井/今年のリオデジャネイロからトライアスロンが初めて正式種目になるんです。その競技にいけるだろうと思っているのが、右足の大腿切断の選手で、秦由加子選手がいるんですが、ちょうど4年くらい前に相談を受けて、真剣にトレーニングをして専用の義足も作って、彼女は新しい競技で活躍してくれるだろうと思ってます。

宮崎/秦選手は、オリンピックのトライアスロンで出場を決められた上田藍選手と同じチーム稲毛に所属されていて、共に活躍が期待される選手ですね。最後になりましたが、改めてAJPSアワード受賞のお気持ちをお願いします。

臼井/年が似た人がいっぱいいるんですが、若い人たちはドキドキした気分で訪ねてくるんですね。それを受け入れて選手とか育てていくには、年がいった人の方が、選手育成にはすごく向いていると僕は思うんです。キャリアとか経験のある人が障害を持った少年とかを支えていくことはすごく大事なことだと。特にパラリンピックというのは、親御さんを含め周りの人のサポート、メディアの人も、支援の結晶、という気がします。

宮崎/ありがとうございました。