1977(昭和52)年の日本スポーツプレス協会(AJPS)設立から約43年が過ぎた。設立当初はフォトグラファーのみ13人という会員の構成だったAJPSだが、1992(平成4)年に国際スポーツプレス協会(AIPS)に加盟し、ノンフィクションライターの佐瀬稔氏が会員に加わったのをきっかけにライター会員が増え、いまでは約170人いる会員全体の3割以上を占めるまでになっている。初代のAJPS会長である中谷吉隆・名誉会員を訪ね、AJPS発足時のこと、AIPS加盟の苦労、さらには自身にとって二度目となる東京オリンピック・パラリンピックへの思いを取材した。
(本編は、AJPSマガジンvol.37に掲載された記事に載せきれなかった分を加筆した完全版です)
文/矢内由美子 撮影/佐野美樹
■1964-2020
社会派スポーツカメラマンが語る56年
東京・市ヶ谷にある中谷氏の事務所を訪ねると、壁一面に広がる書棚が「ようこそ」と言うように招き入れてくれた。本や資料という姿で、日本スポーツ界の歴史が鎮座している。
日本スポーツプレス協会生みの親のひとりである中谷氏は1937(昭和12)年、広島生まれ。80歳を超えた今もクイズ番組『東大王』を見ては頭を鍛え、写真と俳句をコラボレーションさせたフォト俳句作品を生み出す現役カメラマンである。
取材は2019年初冬。まずはスポーツ報道に携わった経緯を聞いた。
広島で生まれた中谷氏は、東京写真短期大学(現東京工芸大学)を出て20歳だった1957(昭和32)年に東京新聞社の嘱託社員として契約。新聞の仕事もしながら、『週刊東京』という週刊誌の写真スタッフとしての仕事も始めた。
「最初の頃は『なんでもできなきゃダメだ』と言われて暗室ばっかりやらされてね。当時のカメラは一眼レフの前の『スピードグラフィック』(通称「スピグラ」)。外に出るようになってからは芸能の仕事が多くて、江利チエミさんと高倉健さんの結婚を撮りに行ったり、久我美子さん、八千草薫さんを撮ったり。上司からいきなり『山へ行ってこい』と言われて、谷川岳で撮ったこともある」
このような状況から始まった写真家生活だったが、中谷氏には元々やりたいテーマがあった。そこで新聞社を辞めたのが1960(昭和35)年。「60年安保」の年である。
「自分がやりたいのは社会的なテーマ。人間の生きざまを写真で表現したい」
中谷氏が社会派志向を持つに至った背景には、自身が中国・天津からの引き揚げ者という生い立ちがある。広島で生まれた後に家族で中国に渡り、原爆を投下された広島に引き揚げてきたのが1946(昭和21)年。目の前には、人間が必死に生き延びようとする日常があった。それは過酷であり、壮絶であり、しかしながら一方には、生きた人間の持つダイナミズムがあった。
それらに包まれて少年時代を過ごした中谷氏にとって、これこそ人間のダイナミズムのるつぼである60年安保に気持ちが向かうのは必然だった。そして、そのまっただ中で勝負しようと決意した。
新聞社を辞めて国会前に行くと、そこで撮影しているカメラマンの多くがフリーランスだった。東京新聞を辞めたとたんに他の新聞社から声がかかったがすべて断り、中谷氏もフリーとして独立した。
発表媒体として考えたのは、当時勢いのあった『週刊朝日』『アサヒグラフ』『サンデー毎日』『週刊文春』『週刊新潮』など。どの週刊誌にもグラビアページがあり、そこにテーマ物を発表するというのが目標になった。
こうして、24歳だった1961(昭和36)年にトカラ列島へ行った。東シナ海と太平洋に挟まれたエリア、鹿児島と奄美大島の間に離島が北斗七星みたいに並んでいる所である。ここは第二次世界大戦後に米軍に接収されていたが、1951(昭和和26)年に日本に返還されていた。中谷氏は、日本政府の離島振興策を受けている最中の島民たちが、実際にどうなっているのかを半年間かけて撮影した。
これが終わると、次に向かったのは南米だった。日本政府は、国内の離島振興策を行ったのと同時期に、ボリビア、ドミニカと移住協定を結んでいた。ところが政府の甘言で南米に移住したものの「聞いていたのと現実の暮らしがあまりにかけ離れている」と、夢破れて日本に帰国する人々が続出していたからだ。
「戦後の移民とは一体何なのだ。これはどこに問題があるのだろう」
中国から引き揚げてきた経験のある中谷氏だけに、関心が膨らんだのだろう。週刊誌から原稿料を前借りしてチリからペルー、ボリビア、ドミニカへ行き、帰ってきたのが1963(昭和38)年。翌1964年7月の週刊朝日に、「地の果てを開く」という題名で11ページのグラビアが掲載された。富士フォトサロンで展覧会も開いた。
折しも、東京オリンピックを目前に控えた時期である。フリーになる前の1958(昭和33)年に東京で行われたアジア大会の撮影経験があった中谷氏は、『アサヒグラフ』から声を掛けられ、遊軍として東京オリンピックの撮影を依頼された。
取材ADはないから、自転車やマラソンを沿道から撮影したり、選手村のあった織田フィールドの周りで撮ったりという、いわば雑感写真。今では考えられないほど、選手に近づいて撮影することができた。
そういった中、マラソンでアベベを撮っていたときことだ。中谷氏はその走りに、えもいわれぬ何かを感じた。たとえるなら、アベベは「哲学」に溢れていた。トカラ列島、ボリビア移民…。社会派カメラマンを標榜していた中谷氏がスポーツの中に哲学を見るようになった始まりだった。
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「人間が走る。記録に挑戦する。相手と戦う。それは一体何なのだろう。生身の人間がする柔道、レスリング、体操。サッカー、ラグビーも興味の対象だった」
こうしてスポーツの世界に入っていった中谷氏だが、1964(昭和39)年の東京オリンピックが終わった後の日本には、フリーのスポーツカメラマンが作品を発表する場がまずなかった。札幌オリンピックを2年後に控えた1970(昭和45)年に『アサヒカメラ』が始めた2ページ見開きのスポーツ連載を依頼されたが、その後は活動が広がっていかなかった。
一方で、1975(昭和50)年に、東京都渋谷区の岸記念体育館内に岸本健氏がフォート・キシモトをつくり、日本体育協会(現日本スポーツ協会)から国体や高校総体などの記録のための撮影の仕事を依頼されていた。そこに何人ものフリーのカメラマンが出入りしていた。
中谷氏は、東京オリンピックの撮影で知り合いになっていた川津英夫氏から岸本氏を紹介され、スポーツカメラマンの団体をつくりたいという話を受ける。彼らには、「フリーのスポーツカメラマンへの認知度が低く、発表媒体も少ない」という悩みがあった。岸本氏は言った。
「スポーツカメラマンの地位を確立させ、市民権を得たい。中谷さん、会長をやってくれませんか」
こうして中谷会長をはじめとする13人のメンバーにより、「日本スポーツプレス協会」が船出をしたのが1977(昭和52)年6月である。当時、ゴルフでは日本国内に写真団体があり、オーガスタでの撮影枠を持っていたが、その他の一般スポーツには類似の団体がなかった。
中谷氏らは何度も会合を開き、思いを確かめ合い、戦略を練った。そして、「カメラマンが日本のスポーツをしっかりと撮影し、スポーツの魅力を伝えていく。そのために、各競技のAD取得など、カメラマンの取材環境を整えていく」という志で立ち上がった。
次にやったのは、日本体育協会(現日本スポーツ協会)がつくっている「アマチュア規定」を勉強することだった。冊子の隅から隅までを丹念に読んで覚え込んだ中谷氏は、メンバーたちと分担して各競技団体に「日本スポーツプレス協会」の設立理念や取材許可のお願いに回った。当時の競技団体は陸上や水泳など約30。岸記念体育会館に居を構えている団体が多く、また、ラグビー協会は秩父宮ラグビー場に事務局があった。
このとき、さまざまな規約や文書を読んでいる中で必要だと感じたのが、1924年に発足していた「国際スポーツプレス協会(AIPS=Association Internationale de la Presse Sportive))」との関係性をつくっていくことである。世界選手権などのビッグイベントを取材するためには、AIPSの資格を得る必要があるからだ。
「日本スポーツプレス協会」をフランス語の「Association Japon de la Presse Sportive」とした理由はまさにここにある。中谷氏らはAJPSを設立した当初からAIPS加盟を意識して会の名を定めていた。
そしてもうひとつ見逃さなかったのが、AIPSはカメラマンの団体ではなく、「スポーツジャーナリスト」の団体であるということだ。つまり、「日本スポーツプレス協会」がAIPSに加盟するためには、スポーツライターを含めなくてはいけないということである。
AJPSが設立当初に掲げた理念として、「本会はスポーツジャーナリストの職能を確立、擁護し、表現及び報道の自由の確保に努め、もって日本のスポーツ界の健全な発展に寄与することを目的としている」と記していたのはそのためだった。
(参考:目的を達成するために、以下のことを推進するとしている。
①取材枠の確保
②報道の自由の確保
③著作権の確立と擁護
④スポーツに関しての正しい報道がなされるように会員の質的向上を図ること
⑤スポーツジャーナリズムの国際的交流と連携
⑥その他の目的の範囲内において必要と求めた事業および諸活動
とはいえ、AJPSが発足した1977年頃は、日本にフリーのスポーツジャーナリストと呼べる人間は存在していなかった。スポーツの記事を書く人間は、新聞社で運動部に配属されている正社員の記者くらいしかいなかったし、運動面は1ページだけしかなかった。スポーツ新聞は今と変わらないくらいあったが、記事を書くのは正社員の記者がほとんどで、契約社員がほんの少しいる程度。フリーランスが活躍する場はほとんどなかった。
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その状況に変化の兆しをもたらしたのが、1980(昭和55)年に創刊された文藝春秋社『Number』に作家の山際淳司氏が発表した『江夏の21球』である。1979(昭和53)年のプロ野球日本シリーズで、広島カープが近鉄バファローズに勝って日本一になった試合のインサイドストーリーである。
AJPSの発足と交渉が次第に実を結び、競技団体が取材許可を出してくれるようになってきたことと、日本国内にスポーツ報道の確かな芽が出てきたのと同じ頃、中谷氏らはとうとうAIPSへの加盟申請をスタートさせた。1985(昭和60)年のことだ。
ところがここで難問が立ちふさがった。すでに新聞各社でつくっていた「日本運動記者クラブ」から「それは許可できない」とクレームがついたのである。
ここで生きたのが、中谷氏がAIPSの規約を熟読していたことだった。中谷氏は「受け皿となる団体があれば加盟することができる」というAIPS規約の文言を武器に、日本運動記者クラブの幹事社である共同通信社に何度も何度も足を運んで説明し、理解を求めた。そもそもヨーロッパでは当時も今もカメラもペンもフリーランスが主体だ。
こうして1987(昭和62)年にAIPSへの正式な申請をしたが、その後も共同通信運動部長との折衝は続いた。AIPSの事務局長であるペラゴラ氏や写真部のチンマンマンとも会って交渉した。
そしてついにAIPS加盟を許されたのが、1992(平成4)年である。申請を始めてから実に7年の月日を要していた。さらに言えば、15年前の設立当初に掲げた目標が実った瞬間だった。追い風も吹いた。作家の佐瀬稔氏がAJPSの会員になったことで、ライター会員が徐々に増えていき、現在に至るのである。現在、AJPS会員の多くが2年に一度、AIPS会員の資格を取得して、海外での取材活動をスムーズなものにしている。
中谷氏は、AIPSに加盟したことと、ライター会員を加入させていく下地をつくったこと、また賛助会員制度のベースをつくって財政の安定を確立した1992年を区切りとして、会長を勇退した。
会長を退いてから約30年。今、中谷氏が思っているのは、「スポーツ界とAJPSが何かしらの連係をして、スポーツが持っている素晴らしさ、感動を世の中に伝えていってほしい」といういうことだ。
2020年、中谷氏は東京パラリンピックを撮影することにしている。パラリンピックは1964年にも「国際身体障害者スポーツ大会(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会」」という名称で、オリンピックが終わった後の11月8日から12日まで、織田フィールドで行われたが、報道されたのはごくごくわずか。写真もあまり残っていない。56年前にオリンピックを撮った者として、今度はパラリンピックで心を震わせる試合や選手を撮りたいという思いがあるのだ。
「自分の心に感じる瞬間を、試合から、選手から切り取りたいという思いが根底にあるんだよ。それが僕のスポーツ写真。人間が生きるということは何なのかというところに返っていくことにつながるものだと思っている」 今も思い出すのは、56年前の男子マラソンだ。中谷氏は甲州街道と環七が交わる大原交差点でカメラを構えた。ファインダー越しに見た人々の顔。ダンプカーの荷台を即席の観覧席に仕立て、和服を着て座ってみている婦人たち。はだしで黙々と走るアベベ・ビキラにレンズを向ける報道車両のカメラマン。甲州街道の沿道に掲げられた「がんばれ、円谷幸吉君」の手書きの横断幕。男子マラソンの元世界記録保持者だった寺沢徹選手を応援する横断幕は円谷選手のそれよりも大きかった。
「50何年もたって写真を見ると、『あ、日本人の顔が変わったね。服も変わったね。報道陣の数はこんなに少なかったんだ』と、そういうことも分かる。僕にとってはここが大事なんだ」
2020東京オリンピック・パラリンピックは、56年前からどのように変化しているだろうか。あるいは変化していないものは何だろうか。そして、アベベの走りから感じた「哲学」を、今度はどの選手から、どのシーンから、切り取っていくのだろうか。中谷氏は今なお、自ら挑戦する姿によってAJPSの理念を体現している。