Text 飯尾篤史 / Atsushi Iio
随所に“内田節”が聞かれた引退会見で、本音だろうなと感じたのは「羨ましかった」というフレーズだった。
ワールドカップ(以下W杯)についての話を振られた内田篤人は、メンバー入りを逃した18年ロシアW杯について、そう語ったのだ。その言葉にW杯への想いが凝縮されている。
22歳で迎えた10年南アフリカW杯では大会直前にスタメンから外され、1秒たりともピッチに立てなかった。その悔しさが、その後のシャルケでの奮闘やブラジルW杯出場への執着に繋がったのは想像にかたくない。
だが、ドイツでの強度の高い戦いが内田の身体を蝕んでいく。11年秋から右腿裏の肉離れを繰り返し、14年2月9日のハノーファー戦で右脚大腿二頭筋腱断裂の大怪我を負う。
W杯開幕まで4か月。手術をすれば間に合わない。温存療法を採用し、W杯のメンバーになんとか滑り込んだ。リハビリがどれほど懸命で、多くのサポートを必要としたかは、壮行試合での行動が象徴していた。
スタメン起用されたキプロス戦でゴールを決めた内田はベンチに走り、ドクター、トレーナー、コンディショニングコーチに抱きついたのだ。
ブラジルW杯で内田は闘志溢れるプレーを見せる。試合を追うごとにテーピングの量が増え、コロンビアとの第3戦では右膝が悲鳴をあげていたはずだが、最後まで足を止めなかった。だが、内田の奮闘も虚しく、日本代表は1分2敗に終わった。
大会終了後、内田は代表引退について考えていることを明かした。
「代表をすごくリスペクトしているぶん、なんか100%でいられない自分もどうなのかなって」
だが、気持ちが揺れているのは、こんな言葉からも伺えた。
「このまま終われば、なんか負け犬のような気がするし。でも、ずっと思ってきた気持ちでもあるし……」
惨敗したことが悔しかったのか、それとも「自分たちのサッカー」にこだわるチームを修正できなかったことへの後悔か。いずれにしても内田は代表から退くことはなく、ロシアW杯出場を熱望するようになる。
18年1月、鹿島に復帰した内田は、なんとも彼らしい言い回しで語った。
「J2だろうが、J3だろうが、草サッカーだろうが、最後にハリルが呼ぶメンバーに選ばれるかもしれない。その気持ちは日本国民全員が持っていて良い。なら、僕も持っていても良いでしょ?」
18年シーズン、内田は開幕戦のピッチに立ったが、怪我を再発させてしまう。内田のことを気にかけていたヴァイッド・ハリルホジッチ監督の電撃解任も痛かった。
5月、西野朗新監督が発表したメンバーの中に内田の名前はなかった。この瞬間、内田のW杯は終わった。
いつの頃からか、髪の毛を濡らしたまま真っ先にミックスゾーンに現われる内田の姿は、日本代表取材の日常となった。常に前のめりな本田圭佑とは対照的に、どこか冷めていながら、話の内容は芯を食い、すとんと腑に落ちるものばかりだった。
取材ノートを引っ張り出したら、内田が代表デビューを飾った08年1月シリーズでのコメントがあった。
「使ってくれたので恩返しをしないとなって。使ってくれないでしょ、普通。感謝しています」
思わずクスッとしてしまう。19歳がこんなこと言わないでしょ、普通。
クラブでは輝かしい成績を収めながら、W杯とは決して良い縁を結べなかった。だが、国を背負って戦うことの尊さを、内田は身をもって示してくれた。
(「サッカーダイジェスト2020年9月24日号」掲載)
飯尾篤史(いいお あつし)/ Atsushi Iio
東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。