「AJPSアワード2022 UnsungHero」受賞 釜本美佐子氏インタビュー(前編)

スポーツ界の隠れたヒーローを称える「AJPSアワードUnsungHero」。第14回を迎える今回は、日本のブラインドサッカーを揺籃期から支えた、NPO法人日本ブラインドサッカー協会の初代理事長、釜本美佐子氏に決定。特別インタビューを2回に分けてお届けする。

●2001年にブラインドサッカーと出会い、競技に関わるようになったそうですが、最初に観たときの印象を教えてください。

釜本:私自身、視覚障がいがあり、いまは光を感じることもできません。ただ、当時はまだ少し見えていたので、アジアで唯一、この競技に取り組んでいた韓国に出かけました。日本はブラインドサッカーがパラリンピック競技に採用されるということで、その出場を目指し、本格的に取り組もうという話になったのですが、競技を見ないことには始まりませんからね。

そこで仲間たちと現地のホテルからサッカー競技場へ向かったわけですが、「ここですよ」と言われたのが、テニスコートのような小さな競技場です。大きなサッカー競技場を予想していたのでびっくりしました。ブラインドサッカーは、(サイドラインの代わりに)サイドフェンスを活用するのですが、私はサイドフェンスがあることにさえ気づいていませんでした。

ところが、アイマスクをした選手たちがピッチで練習試合を始めたのを見た途端、「あら、本当にサッカーやってるんだ」と感銘を受けたんです。視覚障がい者がサッカーをやると言っても、ちょろちょろボールを蹴って、ゴールなんてなかなかできるもんじゃないというイメージでした。ですが、実際に見てみると非常に速く走っていますし、ボールもつないでいます。視覚障がい者でもサッカーはできる。これは日本へ帰って取り組まなきゃいけないと思ったのが最初の印象です。

その後、日本視覚障害者サッカー協会が発足し、初代理事長として奔走。現在と比べてパラスポーツの認知度も低く、さまざまな苦労があったと思います。

釜本:最初はやはり大変でした。選手集めからしないといけないわけで、まず大阪で普及活動を行い、次に横浜で行い、また大阪に行って……あちこちの盲学校の体育館や運動場を借りて普及に取り組みました。

選手が少しずつ集まり始めると、今度は選手たちが試合をしたいというんです。とはいえ、5人、6人では2チームをつくる人数にはならないので、選手のひとりが「じゃあ、もう一回韓国へ行こうよ。韓国に教わりに行って韓国の人たちと練習試合しよう」と言い、そこからスタートしました。

その後、日本国内でも選手たちが練習し始めるのですが、苦労したのは練習場所の確保です。「ブラインドサッカーの練習をしたいので、(ブラインドサッカーと同じピッチサイズの)フットサルのコートをお借りしたい」っていうふうに言ったら、「ブラインドサッカー? 聞いたことないですね」と言われて練習場が借りられなかったこともあったようです。選手たちはずいぶん苦労したと思います。

それから、選手が集まってチームができ始めたので、日本選手権大会を開こうということになり、企画を進めたのはいいのですが、今度はサイドフェンスがないという壁にぶつかります。

お金がないですから、なかなかサイドフェンスを作ることができません。そこで「元々フェンスがあるところを探そうよ」ということになって、苦労してフェンスがある会場を見つけたのですが、第1回大会の会場は、ピッチの大きさが国際基準よりも小さく、走って進んだらすぐ端っこというようなピッチでした。いろんな苦労はあったかもしれませんが、今から考えたらなかなか、それはそれで楽しかったんじゃないかなと思っています。

<特別インタビュー後編は こちら

●釜本美佐子氏 プロフィール
1940年京都市生まれ。海外ツアーコンダクターとして世界を舞台に活躍していたが、50代で網膜色素変性症の診断を受け、全国視覚障害者外出支援連絡会会長、網膜色素変性症協会会長を歴任。ブラインドサッカーとの出会いは2001年。視察団のひとりとしてアジアにおける先進国・韓国を訪れ、視覚障がい者のためのサッカーに魅了される。翌年設立された日本視覚障害者サッカー協会(現日本ブラインドサッカー協会)の理事長に就任。選手団長として海外遠征に同行するなど、影に日向に貢献。海外ツアーコンダクター時代の経験を活かした語学力と英語のスピーチには定評があった。2018年に理事長を退任。現在は陸上競技で東京都障害者スポーツ大会に出場するなどバイタリティは衰え知らず。明治神宮周辺を巡る約2時間のウォーキングが日課。元サッカー日本代表の釜本邦茂氏は実弟。

取材/瀬長あすか 、杉山茂樹  撮影/三船貴光