1976年のAJPS、そして私は……

 来年(2026年)、AJPSは創立50周年を迎える。50年前の1976年、フォトグラファーを中心とした16人のフリーランス・スポーツジャーナリストたちが設立したささやかな協会は、その後の日本スポーツの発展とともに大きく成長した。では、AJPSの誕生時はどんな時代だったのだろうか。

 1976年は昭和51年である。私は25歳。『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)のスタッフとなって4年目を迎えていた。AJPSが誕生するころ、『サッカー・マガジン』はそれまでの月刊誌から「月2回」の発行に変えた。日本サッカーリーグなどの試合の情報を少しでも速くファンに届けようという狙いだった。「月2回発行」は5年間続けられた。しかし、結局はうまくいかず、1981年に月刊誌に戻った。

 うまくいかなかった大きな原因は、広告収入の見込み違いだった。商業雑誌を成り立たせるためには、健全なバランスの広告収入が不可欠であり、1976年時点での『サッカー・マガジン』の広告収入は悪いわけではなかった。ネットなどない時代、そう大きくはなかった「サッカーのマーケット」で商売をするには、大手のメーカーも小規模のスポーツ店も、『サッカー・マガジン』に広告を出すのが最も効率的だったからである。

 それを「月2回」にしたら、2倍とまではいわなくても1.5倍ぐらいの広告収入が見込めるのではないか―――。その目論見だったのだが、フタを開けてみるとどのクライアントも「月2回」のどちらかに出稿するだけで、新規の広告主も出てこなかった。当時の日本の「サッカーのマーケット」は、それほど小さかったのである。

 

 第二次世界大戦終結から30年、1976年は、国内では田中角栄前首相逮捕につながるロッキード事件が発覚し、国際的にも前年にベトナム戦争が終結してアメリカは混乱のなかにあった。この年の9月には中国共産党の毛沢東主席が死去し、中国の「文化大革命」が終焉を迎えた。

 こうした激動期だったが、2月にはインスブルック(オーストリア)で、そして7月にモントリオール(カナダ)でオリンピックが開催された。インスブルック冬季大会ではメダルなしに終わった日本だったが、モントリオールでは9個の金メダルを獲得した。といっても、内訳は体操と柔道がそれぞれ3個、レスリングが2個、そしてバレーボール女子だった。今日のように、さまざまな競技で日本人選手が活躍するのを見られる時代ではなかったのである。

 

 当時、ベースボール・マガジン社内には社員カメラマンを何人も擁する堂々たる「写真部」があった。しかし『サッカー・マガジン』では、より質の高い競技写真を掲載しようと、フリーランスの今井恭司さんや中島光明さんらに試合撮影を依頼していた。欧州では、富越正秀さん、松本正さん、そして倉井美行さんといったフリーランスのフォトグラファーたちが、ロンドンをベースにして活発に取材し、未現像のままのフィルムを送ってきてくれていた。

 この年の8月、私は初めてイングランドで取材する幸運に恵まれた。といっても正規の「海外出張」など、オリンピックなど特別な場合を除き認められない時代だった。旅行会社が企画した「イギリス少年サッカー教室」の募集広告を無料で掲載する見返りとして編集部員を1人帯同取材させるという「バーター契約」による出張だった。

 シェフィールドでの少年サッカー教室の取材を数日間で済ませると、私は勇躍マンチェスターに出かけ、当時のサッカーファンなら誰でも大好きだったマンチェスター・ユナイテッドの取材にまい進した。

 この出張に際し、私は表紙からカラーページ、モノクログラビア、そして本文で、合計34ページという「マンチェスター・ユナイテッド大特集」を企画し、さまざまに手配をして出かけてきていた。そのひとつに、「監督インタビュー本文4ページ」という企画があった。当時イングランドで最も注目されていた監督のひとりであったトミー・ドカティの単独インタビューである。

 その週末の試合(バーミンガム・シティとのホームゲーム)の取材申請は、東京からの手紙で送ってあった。しかし当時は、インタビューの申し込みは口頭か電話で行うものだった。このときは現地での交渉である。

 ユナイテッドのオフィスに事務総長を訪ね、「日本の『サッカー・マガジン』の記者である。土曜日の試合の取材パスを受け取りにきた」と話すと、用意してあったパスを出してくれた。こんなに簡単に取材パスが出るのは、富越さんや松本さんが優れた写真を撮り、日本の雑誌を飾っていることが欧州でも広く知られるようになっていたからだ。

 パスを受け取ると、私は悪びれもせずに「監督にインタビューしたい」と申し入れた。すると事務総長も、何の関心もない表情で「監督に直接言え」と言った。取材申請書も、広報を通してでもなかった。そんな牧歌的な時代だった。

 

 その日のトレーニング後、私はドカティ監督をつかまえ、「明日、インタビューをできないか」と訪ねた。ドカティ監督も簡単だった。「いいよ」。

 ただ、その後が問題だった。

 「で、どのくらい?」

 これは「How much?(謝礼はいくら?)ではない。「How long?(何分間?)」である。

 「1時間」

 「とんでもない。そんなに無理だ」

 「では何分間?」

 「そうだな、5分間」

 私は粘った。

 「このために日本から来たんです。せめて30分間お願いできませんか」

 ドカティはしばらく黙って私の顔を見ていたが、こう言った。

 「そうだな。じゃあ、15分間。明日の練習後に、私の部屋にこい」

 ともかく約束はできた。しかし15分間のインタビューで4ページもの記事になるだろうか……。

 

 翌日のトレーニング終了後(開幕戦の前日だった)、監督室に行くと、シャワーを浴びるから少し待ってほしいと言われたが、10分もしないうちに頭をタオルで拭きながらドカティ監督が出てきた。この日は、倉井美行さんが同行してくれていた。

 狭く、暗い監督室だった。「これが世界で最も人気のあるクラブの監督室か」と驚いた。

 インタビューが始まる。15分間と言われたから、私は、20分か、25分までは粘ろうと考えていた。しかし話し始めると、ドカティ監督は私との会話を楽しみ、次第に熱くなっていった。時間など忘れて次々と質問に答えてくれたのである。「ありがとう」と言って握手し、時計を見ると、話し始めてから1時間が経過していた。

 「とにかく約束をとりつけること。あとは腕次第」ーーー。貴重な教訓だった。

 

 25歳、まだ「駆け出し記者」だった私が、外国人大物監督への初めてのインタビューで貴重な体験と教訓を得たころ、すでに日本のスポーツ報道のトップランナーだったAJPS発足メンバーの「オリジナル16」のジャーナリストたちは、世界のスポーツ界でもリスペクトされる存在になっている者もおり、当時まだ非常に閉鎖的だった日本のスポーツ報道の世界に大きく波紋を広げる一石を投じるのである。

 

写真:倉井美行 @KURAI Yoshiyuki

 

大住良之(おおすみ よしゆき)/サッカージャーナリスト

1951年神奈川県横須賀市生まれ。中学1年生のとき校内誌の編集部に入り、中学3年からかけもちでサッカー部でも活動。大学卒業4年生の1973年から『サッカー・マガジン』編集部で働き、1982年以降はトヨタカップなどのチーム取材で欧州と南米の強豪クラブを取材。1988年にフリーランスとなる。以後は日本代表とJリーグの取材が中心となるが、ワールドカップは1974年ドイツ大会から、オリンピックは1996年から取材。『東京新聞』や『日経電子版』などでコラムを書く一方、1984年以来、東京の女子サッカークラブ「FC PAF」の監督を務める。JFA公認C級コーチ、サッカー4級審判員。