NFLの現場で「Tokyo Toe」を追いかけて。松澤寛政、初得点の日

Text 北川直樹 / Naoki Kitagawa

 4月、この場所で「ドラフト、そしてその先を、引き続き追いかけたい」と書いた。あれから、画面の中で追っていた選手を、同じフィールドに立って追うことになった。

 松澤寛政は、ドラフトで指名されなかった。だが直後、ラスベガス・レイダースと契約する。8年前、目標を見失っていた20歳の彼が、アメリカで初めて生で観たNFLの試合。それが、レイダースだったのだ。指名外(UDFA)での契約。開幕ロースター53人をかけた、ベテランのマット・ゲイとの正キッカー争いが始まった。

 その現場に立つのは、簡単ではなかった。渡米前に広報担当者へ送ったメールに返事はなかなか来なかった。待っていては移動の手配が間に合わない。空振り覚悟でチケットと宿を押さえ、確定の連絡が届いたのは往路のトランジットのときだった。

 現地8月20日、ヒューストン。プレシーズン第2戦の舞台となった、開閉式屋根のリライアント・スタジアムは、これまで聞いたことのない歓声と、号砲に包まれていた。世界最高のスポーツビジネスという言葉が大げさではないと、肌で分かる空間だ。この日、日本から来たメディアは自分だけだった。その真ん中に松澤は立っていた。186cmの体が、すこし小さく見えた。

 試合前、彼はコンペティターのゲイや、相手チームのキッカーと言葉を交わしていた。ボールを蹴る瞬間以外、キッカーは試合の流れの外にいる。前半、松澤に出番はなかった。ヘルメットを外し、ゲイのキックを見つめ、試合を外から見ている側だった。

 後半、3クオーター。タッチダウン後のキックで、松澤がフィールドに送り出された。ボールはやや右にそれながら、ポストの間を抜けた。日本国籍の選手が、NFLのプレシーズンゲームで初めて刻んだ得点だった。

 だが、松澤は喜ばなかった。緊張した表情のまま、仲間とハグを交わしただけだった。歴史的な1点よりも、目の前の一本。4度の取材で見てきた「重心の低さ」が、現場でそのまま立ち上がった瞬間だった。

 しかし、続く4クオーターで、彼はタッチダウン後のキックを2本続けて外す。この日の成功は3本蹴ったうちの1本だった。試合後のロッカールームの奥で、松澤は勝利に沸く仲間の間に、一人うつむいて座っていた。そんな状況でも、声をかけると応じてくれた。返ってきたのは、歴史的な1点の話ではなかった。「本当に自分のテクニックの足りなさ」。敵地の雰囲気も、タイミングの難しさも、彼は一切言い訳にしなかった。

 思えば、松澤と握手をしたのは、2025年1月、最初の取材のときだった。あれから1年半、ヒューストンで再会し、取材の終わりに、もう一度握手をした。

 かつて受験に二度失敗し、出口の見えないトンネルの中でひとりボールを蹴り続けていた彼。「これしかない」とスポーツフォトグラファーになると決め、跳ね返されながら道を探していた自分。その時に私が描けた夢は、せいぜい日本の現場だった。あらゆる意味での世界最高峰、NFLの現場に立つ日が来るなど、考えてすらいなかった。

 NFLで日本人選手が「初」を名乗るには、53人のロースターに残らなければならない。その線は、まだ越えられていない。IPP枠(国際選手強化枠。ロースター、練習生16人の枠とは別に1人の登録が認められる)という後ろ盾も含めて、道はひとつではない。千葉の公園でボールを蹴り始めた青年が、誰も立っていない一線の、すぐ手前まで来た。その先を、また現場で追いかけたい。

松澤寛政(まつざわ・かんせい)

1999年1月8日生まれ、千葉県出身。幕張総合高校サッカー部でFWとして県ベスト8。大学受験に2度失敗後、渡米先でのNFL観戦をきっかけにキッカーを志す。YouTubeで独学し、ステーキハウスのアルバイトで資金を貯めて2022年にオハイオ州ホッキングカレッジへ。2023年にハワイ大学編入。2025年シーズンはFG成功率96.2%(レギュラーシーズン25/26)、開幕から25連続成功でFBS記録に並び、ハワイ大学史上初のコンセンサス・オールアメリカンに選出。グローザ賞(全米最優秀キッカー)ファイナリスト。2026年2月のNFLコンバインに参加。同年4月のドラフトでは指名されず、直後にラスベガス・レイダースとUDFA契約。愛称は”Tokyo Toe”。

北川直樹(きたがわ なおき)/フォトグラファー・ライター

1988年1月生まれ。立教大学現代心理学部映像身体学科卒。アメリカンフットボールのプレイ経験をもとに、スポーツ報道の道へ。好きなスポーツは、アメリカンフットボールとボクシング。フリーランスのフォトグラファー、ライターとして活動中。日本スポーツプレス協会(AJPS)、国際スポーツプレス協会(AIPS)会員。