東京2025世界陸上レポート(第9回) ある長距離走ファンの世界陸上

Text 大住良之 / Yoshiyuki Osumi

 4時起きしてマラソンを見にいった。

 もちろん、路上応援である。いろいろ考えて、水道橋駅から神保町に向かう三崎町あたりでレース序盤の走りを見ることにした。きれいに晴れ上がった朝だった。

 

 私はサッカーの取材と報道を仕事にしている。15歳から、私の人生の大半はサッカーとともにあり、サッカーを中心に回ってきた。しかし少年時代からなぜか長距離走にも心をとらえられ続けてきた。

 小学生時代には青森東京駅伝に心を躍らせた。もちろんテレビ中継などない。毎朝、読売新聞に出る速報と白黒写真に、白い山を背景に奥州路を疾走するランナーたちを想像した。長そでシャツに白い軍手、白い短パンとハチマキ姿で寒風を突っ切るランナーたちは、特急列車でも12時間もかかる距離をどうつないでいくのだろう……。

 青森東京駅伝(後に「東日本縦断駅伝」と呼称が変わった)は、いまでも私の夢だ。760キロを55区間でつなぎ、合計40時間余りで走りきるなんて、長距離走のロマンそのものだ。大変な事業であることはわかるが、再開されないだろうかと、夢見ているのである。

 

 1960年のローマオリンピックは小学3年生だったはずだが、ニュース映像で見た裸足のアベベ・ビキラは衝撃だった。中学1年生で迎えた東京オリンピックのアベベと円谷幸吉、高校2年生のメキシコオリンピックの君原健二には、ロマンさえ感じた。1965年に英国のウィンザーマラソンで重松森雄がアベベの記録を破る2時間12分ちょうどの世界最高記録を出したときには、日本人として誇らしく思ったものである。

 1986年に文藝春秋から文庫版が発刊された『遥かなるセントラルパーク』には心を奪われた。英国のトム・マクナブという人が書いた『Flanagan’s Run』の飯島宏さんによる名訳で、上下巻800ページもの長編を繰り返し読んでしまった。ロサンゼルスからニューヨークまでの「アメリカ横断マラソン」。全行程5000キロという気の遠くなるようなレース。男女の参加ランナーの人生や、行く先々での出来事に加え、陸上競技のコーチでもあった著者は、長距離ランニングについてのレッスンにまで言及している。

 

 2000年のシドニーオリンピックで高橋尚子が優勝したレースは、前夜準々決勝で敗れた日本のサッカー代表を取材したアデレードの空港に向かうタクシーのラジオで聞いていた記憶がある。2001年10月には、英国のホテルで、ハーフマラソンの世界選手権で野口みずきが大柄なパウラ・ラドクリフに食らい付いて大健闘する姿をテレビで見て興奮した。この日はサッカーの日本代表がサウザンプトンのスタジアムでナイジェリアと対戦したのだが、レースは午前中だったのだろうか。

 その翌日、ロンドンから東京に戻る全日空機に乗ると、隣の席が野口だった。コーチといっしょだったが、小学生のように細く、そして小さかった。その小さな野口が、前日、最終順位は4位だったものの、1時間8分23秒の自己ベストを出していた。3年後のアテネオリンピックで、野口が日本に女子マラソン2連覇をもたらすなど、そのときには想像もつかなかった。

 

 何か特別なものを見せるわけではない。ただひたすら2本の足を交互に前に出し、突き進んでいく競技。それでも、2時間を超すテレビ中継に見入ってしまう競技。なぜ人は長距離走に心を惹かれるのだろうか。

 それだけ長距離走やマラソンに心をとらえられてきた私だが、残念ながら実際にランナーが走るのを見たことはなかった。そこで9月15日の朝、世界陸上の男子マラソンを見ようと、三崎町まで出かけたのだ。応援のファンは意外に少なかった。予想どおり、「周回コース」の手前のこの地点は「穴場」だった。

 7時半のスタートから23分ほど、パトカーに続いて2台の白バイ、時計を乗せた軽自動車、テレビ中継のバスとカメラマンを荷台に乗せた報道トラックの後ろに、ランナーたちの姿が見えてきた。このころには道の両側はファンで埋まり、大歓声と拍手が起きる。

 私はかなりいいポジションに陣取ったつもりで、カメラをセットしていた。そして選手たちの姿が見えると、シャッターを押し続けて連写した。先頭集団に何十人いただろうか。あっという間に目の前を飛び去った。

 私の「マラソン初観戦」は、信じ難いほどの短時間で終わった。それは「青森東京駅伝」や「アメリカ横断マラソン」で想像していた長距離走とは、まったく異質な世界だった。もうすぐ2時間を切ろうかという現代のマラソン。42.195キロという、歩こうとしたら気が遠くなるような距離を、この高速で駆け抜けるランナーたちの姿に、ただただ圧倒される思いだった。

 

 すぐに帰って写真を見た。大きな失望だった。完全な「後ピン」だったのだ。目の前を横切るランナーたちが速すぎたのか、すべての写真は、通りの向かいのビルにピントが合っていた。

 ランナーたちのスピードに圧倒されただけでなく、このスピード競技を見事に切り取るプロのスポーツカメラマンたちの「神業」にあらためて畏敬の念を抱くことで、私の「世界陸上」「マラソン初観戦」は終わったのである。

 

撮影:筆者本人「文字どおり”瞬く間”に私の前を駆け抜けていった先頭集団。なぜか大半の選手がオレンジ色のシューズ姿。しかし写真は、向かいの日大のビルにぴったりとピントが合っていた」

 

大住良之(おおすみ よしゆき)/サッカージャーナリスト

1951年神奈川県横須賀市生まれ。中学1年生のとき校内誌の編集部に入り、中学3年生からかけもちでサッカー部でも活動。大学卒業4年生の1973年から『サッカー・マガジン』編集部で働き、1982年以降はトヨタカップなどのチーム取材で欧州と南米の強豪クラブを取材。1988年にフリーランスとなる。以後は日本代表とJリーグの取材が中心となるが、ワールドカップは1974年ドイツ大会から、オリンピックは1996年から取材。『東京新聞』や『サッカー批評WEB』などでコラムを書く一方、1984年以来、東京の女子サッカークラブ「FC PAF」の監督を務める。