「魂の抱擁――1978年アルゼンチン・ワールドカップの情景」 Text 大住良之 / OSUMI YOSHIYUKI

 AJPS報道展「The BEST」ライター会員作品集

1978年6月25日、私はまだ26歳だった。「それ」を見た瞬間、頭にかっと血が上ったのも無理はない。

アルゼンチン・ブエノスアイレスのリバープレート・スタジアム。25日間のワールドカップも、この日、地元アルゼンチンとオランダの決勝戦でフィナーレを迎える。広くない記者室はざわついていた。

「それ」とは、この決勝戦のピッチにはいることができるフォトグラファーだけに配布されたオレンジ色の「ビブス」のことである。

登録された数百人のフォトグラファーのうち、配布を受けるのは100人にも満たない。それを着ないとゴール裏でカメラを構えることができないその貴重な1枚を、あろうことか、地元アルゼンチンの「OBフォトグラファー」が着用し、余裕しゃくしゃく、仲間と語り合っているのだ。

■「老人」は私をつかまえて言った。「じゃあな、ぼうや」

鮮やかな白髪、長身でやせ気味、鋭い目つきのその「老人」(といってもこのときはまだ66歳だったのだが)と会ったのは、ちょうど1年前、1977年の6月のことだった。

『サッカーマガジン』のスタッフだった私は、フリーランスのフォトグラファー富越正秀さんとともにワールドカップの「1年前取材」を敢行した。会場都市を回って建設中のスタジアムを取材することは、その重要な一部だった。

その取材許可を得るために、私たちは地元組織委員会の広報部に日参した。最初は「ノー」、翌日は「また来たのか」、3日目は「おお、元気か」…。そうしてようやく取材許可証が手にはいるという具合だった。

「広報部」と言っても、女性の秘書ひとりに60代と思しき男性が2人、若い男性が2人、ひまそうに談笑していた。そしてそのほかに、くだんの「老人」がときおり姿を見せた。部屋にはいってくると、彼は辛口のジョークを二つ三つ飛ばし、あとは座りもせずドアのところに立って独特のストローを使うマテ茶を飲んでいるだけだった。

私の理解したところでは、この広報部は主としてボランティアで運営されており、その中心は引退した記者やフォトグラファーなのだろうということだった。

ようやく許可証を手にして広報部を辞去しようとしたとき、「老人」はドアのところで私をつかまえてこんな失礼なことを言った。

「じゃあな、ぼうや」

実際のところ当時の私はけっこうかわいかった(本当だ。信じてほしい)。しかしガキ扱いには頭にきた。

「ぼうやだって? 僕はいくつに見えるんですか」

「そうだな、16ってところかな」

私がひげを生やそうと決心したのは、「老人」の失礼な言葉がきっかけだった。

■老人が首から下げていたのは、古道具屋で売っていそうなカメラ

ひげの話はどうでもいい。その「老人」との1年後の再会が、ワールドカップ決勝戦のリバープレート・スタジアムだったのだ。

誇らしげにビブスを着けた「老人」の胸には、古道具屋で売っていそうなカメラが1台ぶら下がっていた。カメラからは、気の毒なほどに細いレンズが突きだしていた。それも私の怒りを増幅させた。

「引退したフォトグラファーが、コネか権力を使ってワールドカップ決勝のピッチで写真を撮るのか。そのためにあんなに古いカメラを持ち出してきたのか!」

この大会には、日本から9人のフォトグラファーが登録していた。そのうち『サッカーマガジン』が3人いた。

編集者(兼記者)は私ひとりだった。私の仕事は、3人から撮影済みのカラーフィルムを受け取って現像所に持ち込み、引き上げてから写真を選び、依頼した原稿や自分で書いた原稿とともにページを構成してセットして東京に送るというものだった。

このほかに契約していた現地の2つのエージェンシーに毎日通い、モノクロの写真を選んで翌日受け取るという仕事もあったから、信じがたいほどに多忙だった。「ワールドカップ取材」と言っても、かろうじてブエノスアイレス市内の試合には行くことができたが、大会前後を含めた1カ月間、私が市内を出たことはいちどもなかった。睡眠時間は平均して3時間ほどだっただろう。

さて、決勝戦の前々日、富越さんがFIFAのプレスオフィサーに呼び出された。

「日本には2枚だ」

ピッチに降りるビブスの割り当て数である。ビブスがなければスタンド上部の観客席からの撮影となる。

富越さんは粘ったが、当時の日本は当然出場国ですらなく、FIFAが大会の公式スポンサーを募集する前の時代だったから、財政面でもワールドカップとは無関係だった。「2枚」は、プレスオフィサーからの精いっぱいの友情の証しだった。

■引き当てたのは、前半だけの「0.5」枚

9人の日本人フォトグラファーは決勝戦前日に市内のレストランに集まり、「2枚」をどう分けるか協議した。結論は「抽選」だった。ただし1枚はフルマッチ、もう1枚は前後半で分けて、3人が当選することになった。そして『サッカーマガジン』が引き当てたのは、前半だけの「0.5」枚だった。

『サッカーマガジン』のフォトグラファーのなかでリーダー格だった富越さんは「まっちゃん、使え」と、その権利をやはりフリーランスの松本正さんに譲った。「僕は上から撮るから」と言ったときの富越さんの真意はわからなかった。

プレッシャーがかかったのは私である。別冊の速報号には、カラーだけで12ページも用意されている。そのほか、当時月2回発行だった本誌の表紙やカラーページの写真も必要だ。夏には大会の別冊写真集を発行する予定もある。決勝戦が前半の写真しかない状況で、どうつくればいいのか。

決勝戦の翌日にブエノスアイレスを出発する便を予約してあったのだが、写真がなければなんとか市内のエージェンシーなどからかき集めなければならない。そうしたらどうやって地球の裏側まで帰るのか…。

その重苦しい気持ちのまま寝不足の頭を振り振り、6月25日の朝、私はリバープレート・スタジアムにやってきた。そこで見たのが、「時代遅れのカメラをもったOBフォトグラファーのビブス姿」だったのだ。

こんな状況で、この「老人」に殺意にも似た暗い気持ちを抱かない人がいたら、聖人に違いない。

■目に止まった「大会最優秀写真」

さて、いろいろあったが、私はともかく予定どおり日本に帰ることができた。帰国しても別冊の編集、本誌の編集とブエノスアイレスと変わらない生活が続いてようやくひと息ついたころ、アルゼンチンから1冊の雑誌が送られてきた。

アルゼンチンにとってワールドカップ初優勝の余熱が濃厚に残る雑誌をぱらぱらとめくるうちに、1枚のモノクロ写真に目が止まった。

「大会最優秀写真」に選ばれたものだという。

延長まで120分間を戦い、3?1で勝ってついに念願の初優勝。それを地元のファンの前で成し遂げたアルゼンチン。

しかしその写真に写っていたのは、マリオ・ケンペスなどのスターや熱狂のシーンではなかった。被写体はゴールを守り抜いたGKウバルド・フィジョルと左サイドバックのアルベルト・タランティニ。

ほかのアルゼンチンの選手たちはピッチ上のあらゆるところで狂気し、飛び跳ねていた。しかしこのふたりだけはその熱狂から離れ、終了のホイッスルが鳴った瞬間にプレーからいちばん遠かったアルゼンチンのゴール前にひざまずき、子どものように抱き合って泣いていた。

そこにもうひとりの被写体が現れる。スタンドから飛び降りたひとりの若いファンだ。

その瞬間をとらえた1枚だった。

そのファンも、フィジョルとタランティニの抱擁に加わりたかったに違いない。

しかし彼にはそれができなかった。

ジーンズにセーター姿のその若者の両そでは、両肩のところからだらりとぶら下がったままだった。そう、そのファンは両腕がなかったのだ。

「El abrazo del alma(魂の抱擁)」

その写真には、こんなタイトルがついていた。

彼はふたりを抱きしめることはできない。しかし心のなかでは、しっかりと抱擁に加わっている…。

■写真は機材で撮るのではないことを教えてくれた「ドン・リカルド」

次のページには、撮影者の写真とプロフィールがあった。

もちろん、撮影者はあの「老人」だった。

ドン・リカルド・アルフィエリ。アルゼンチン最大の出版社「アトランティダ」の大ベテラン・フォトグラファーで、それまでにもいくつもの受賞歴をもつ「生きた伝説」だった。「アトランティダ」が発行するスポーツ週刊誌『エルグラフィコ』を舞台に数々の名作を発表してきた。

彼のカメラは旧式で、レンズも暗く、短かった。しかし写真は機材で撮るのではない。目の前で起こっていることをとっさに理解し、その瞬間を逃さずに一枚の絵として切り取る「心」こそ、報道写真にとっては最も大事なのだと、私はこの写真を見るたびに思う。

「ドン」は敬称である。実はこのころ、息子のリカルド・アルフィエリが『エルグラフィコ』のエース・フォトグラファーとして最前線で活躍していたため、父リカルドは「ドン・リカルド」と呼ばれるようになっていたのだ。

息子リカルド・アルフィエリは後に日本の『サッカーマガジン』と契約し、1989年9月、マラカナンでのワールドカップ予選「ブラジル×チリ」でチリのGKロハスが発煙筒投げ込みを利用した「偽装事件」の決定的瞬間を写したことで世界的に有名になった。

現在は、リカルドの息子マウロが南米有数のスポーツフォトグラファーとして活躍している。

■両腕を広げ、叫びながら疾走したケンペス

ところで、1978年、私の『サッカーマガジン』はどうなったか。

決勝戦の数時間前になって、FIFAはピッチに降りられないフォトグラファーのために特別の「スタンド」を架設したことを発表した。

リバープレート・スタジアムのスタンドはピッチから5メートル以上の高さがあったので、ペナルティーエリアあたりのタッチライン沿いにスタンド下まで数段のデッキをつくり、そこで撮影していいことにしたのだ。

前半に松本さんが許されたメインスタンドから見て左のゴールのゴール裏だったため、富越さんは右側の「特設席」に位置取った。

0?0で迎えた前半38分、パスを受けたアルゼンチンのケンペスが強引に中央を突破した。一瞬、ドリブルが長くなってボールを失ったと思ったが、その瞬間、彼は長い足を伸ばしで倒れながらボールに触れ、先制点を奪った。

そして立ち上がると、ケンペスは両腕を大きく広げ、何か叫びながら、なんと、まっすぐに富越さんのところに向かって疾走してきたのだ!

記者席は遠く離れていた。しかし私には、富越さんが最新のレンズで次々とピントを合わせながらモータードライブのシャッターボタンを押し、ケンペスの姿が画面いっぱいに35ミリのカラーフィルムに記録されていく様子まで想像することができた。

そしてこうつぶやいた。

「よかった、これで帰れる」