「NECを優勝に導いた2人のセッター、秋山美幸と山口かなめが歩んだ苦悩の日々」 Text 田中夕子 / TANAKA YUKO

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優勝を決めるポイントは、19歳のルーキー、柳田光綺に決めさせたい。2?1とリードして迎えた第4セットのマッチポイント、NECレッドロケッツのキャプテン、秋山美幸はライトの柳田にトスを上げたが、久光製薬スプリングスのブロックにタッチを取られ、1本では決まらない。再び戻って来たボールを、今度はレフトの近江あかりへトス。柳田よりもやや低めの、決して打ちやすいトスではなかったが、近江が押し込むように放ったスパイクは相手ブロックに当たりながらもコートに落ち、25?19。実に10シーズン振りとなるNECのVプレミアリーグ優勝が決まった。

表彰式の檀上、秋山はズシリと重いブランデージトロフィーを両手で高く掲げた。

「こんな日が来るなんて思いませんでした」

溢れる涙には、理由があった。

■「挑戦」と「変化」を余儀なくされたシーズン

今季のNECは、近年の課題であった「攻撃力不足」を解消するために、新たなスタイルに取り組んできた。ミドルブロッカーの島村春世や大野果奈が、従来のA、Bクイックやブロード攻撃に加え、ブロックで跳んだ後にそのままレフトやライトで助走に入ってスパイクを放ち、後衛時にもリベロと代わらずバックアタックに入る。

セッターを含めた全員攻撃。言葉にすれば簡単に聞こえるが、選手たちにとっては大きな意識改革でもあった、と島村は振り返る。

「前衛にいる時だけでなく、後衛にいる時でも常に攻撃のことばかり考えていました。相手のスパイクをレシーブした後でも、すぐ次の攻撃に入らなきゃ、と思っていたし、全部自分が打つ、ぐらいの気持ちで助走に入っていました」

加えて、単純に攻撃枚数を増やすというだけでなく、1人1人の攻撃に幅を加える。たとえば平行な軌道のトスを打つことが得意なサイドの選手にも高いトスを打たせ、中から外へ開いたり、外から中へ入ったり、動きに変化を加え、得意なコースばかりでなく、ストレートもクロスも打てるように。シーズン前の鍛錬期のみならず、リーグ戦が終盤に入っても山田監督は選手たちに「個」のスキルアップを求め続けた。

アタッカーを生かすために、セッターに求められる要素も格段に増える。キャプテンの秋山と、山口かなめ。2人のセッターにとっても今季は「挑戦」と「変化」を余儀なくされたシーズンでもあった。

高い位置でのセットアップからミドルを生かせる山口と、崩れた状況を立て直す抜群の安定感を持つ秋山。持ち味は違うが、共に大学在学時には数多くのタイトルを総なめにするなど、豊富なキャリアを持ったセッターでもある。

だがVリーグで2人が歩んできたのは、決して華やかな、光の当たる道ではない。

卒業後間もなく、秋山はNECで、山口はJTでレギュラーセッターに抜擢されるも、秋山はケガとの戦い、そして山口には見えないプレッシャーとの戦いが待っていた。

■竹下佳江と比較に悩まされ続けたJTマーヴェラス時代

ポスト竹下。

何もしなくても、JTマーヴェラスのセッターとしてトスを上げるだけで、山口はその前年までチームの司令塔であった竹下佳江と比較され続けた。かつて竹下自身が「自分と同じようなセッターはいなかったから、自分自身で考えて、形をつくるしかなかった」と言っていたように、身長が高ければそれだけ有利とされる競技において、159?の竹下が、世界と戦うために築いて来たスキルや戦術は、他の選手に真似できるようなものではない。

セッターとして、竹下の個性があり、山口の個性がある。ごくごく当たり前のことなのに、取材時にはまるで常套句のように「竹下さんの後でセッターになったプレッシャーは?」と言われ続けた。

周囲の選手たちは「自分のスタイルでやればいい」と若い山口を支えてくれたが、負ければ「セッターが代わったから」と言われるのではないか。気にしないようにすればするほど、周囲の声が気になった。覚悟して選んだ道とはいえ、自分を評価してくれる人はいないのではないかと、思い悩むことは一度や二度ではなかった。

1年目、2年目と年数を重ねるにつれ、自身の試合出場が減っていく。もう一度、1からではなくゼロからやり直すつもりで。今季、山口はNECへの移籍を決断した。

■「さすがにもう引退かな、と思っていました」

一方、秋山は大学時代に左肩の腱板を断裂し、NECに入社後、今度は右肩の腱板断裂。トスをするために両手を上げるどころか、ドアノブも回せず、フライパンを持つことすらできないほどの痛みに見舞われた。

現役続行のために、というよりも、日常生活に支障をきたさないように、と2011年に手術を敢行。まず炎症のひどかった右、落ち着いたら次は左。術後は激痛に見舞われ、眠れない夜も当たり前。退院後も常にどちらかの肩を固定した状態で、チームを離れ、長いリハビリ生活を余儀なくされた。

ようやく体育館に戻っても、周りの選手たちと同じようにボールを使った練習はできない。少しずつ、地道にトレーニングを続け、まずは肩に負担がかからないよう、肩甲骨から動かすことを意識してボールを投げる。それができたら次は両手でボールを上に上げる。痛みがない状態でトスを上げられるようになるまでには、1年以上の月日を擁した。

それだけでも十分なケガとの戦いであるはずなのに、本格復帰を果たした昨シーズン、試合中にトスを上げようとネット際でジャンプした際、着地の体勢が崩れ、今度は左膝前十字靭帯を損傷。三度目の手術を敢行した。

「さすがにもう引退かな、と思っていました」

30歳を迎えるシーズン、自分は再びコートに立つことができるのか。不安を抱かなかったわけではない。だが、ベテラン選手が抜け、若手を主体にしたチームでまだすべきことがあるのではないか。未だ経験したことのない優勝に向け、力を尽くそう。今季は、決意のシーズンでもあった。

■2人のセッターが共につくり上げた完璧なゲームプラン

スタートは山口で、終盤に秋山を投入する。レギュラーラウンドの中盤からは、それがNECの形になった。当初は山口のトスや試合運びが崩れた場面で秋山を入れる、という状況も少なくなかったが、ファイナル6に入ってからは、明らかな変化が生まれた。

ファイナル6の開幕前日、それまでチームの得点源であったイエリズ・バシャが右手親指を骨折し、欠場を余儀なくされた。チームにとって暗雲が漂う非常事態ではあったが、代わって入った柳田を生かすべく、山口はバックアタックを多用した。

「柳田が入ると、ミドルのクイックと同じテンポで攻撃できる。相手からすれば、イエリズの時はミドル(の攻撃)を見てからサイドをカバーしても間に合っていたけれど、柳田はミドルと同じタイミングで攻撃に入ってくるからどっちをマークしていいかわからず、ブロックが分散する。これはうまく使えば武器になる、と感じました」

ファイナル6、ファイナル3のみならず、柳田の攻撃は久光製薬との決勝戦でも冴え渡った。クロス、ストレートとコースを変えて鋭角に放つスパイクだけでなく、相手のディフェンスの間を狙ったフェイントや、巧妙なブロックアウト。久光製薬の中田久美監督が「好きなようにやられてしまった」と脱帽したほど、自在で多彩な攻撃を決めてみせた。

加えて、チームの攻守の要であり、久光製薬からは「要注意」と警戒されていた近江をどう使うか。それもNECにとっては1つの大きなポイントだったが、柔らかなトスで近江を生かしたのが、決勝でも中盤から山口に代わって入った秋山だった。

相手のスパイクをレシーブしたボールをセッターに高く返す間、しっかり助走を取り、近江がスパイクに入る。その間を使って秋山も相手のブロッカーが構えた位置を見て、1本目はやや中央寄りにふわりと上げたら、次はアンテナの先まで伸びるようなトスを上げる。スパイク技術もさることながら、上がってくるトスに対して絶対的な信頼感があったからこそ決められた、と近江は言う。

「セッターのトスに全く不安がなかった。自分が入れば絶対その場所に来る、と信じていたから、常に思い切り助走へ入ることができて、一番打ちやすいポイントで気持ちよくスパイクを打つことができました」

山口は「いい形でアキさんにバトンタッチしたかった」と言い、秋山は「山口がつくった流れをいい形でつなぎたかった」と言う。互いの持ち味を生かし、アタッカーを生かす。2人のセッターが共につくり上げたゲームプランは、決勝という大舞台で、完璧、と称してもいいほど機能した。

■二度と上がらないと思っていた両肩で……

10年振りの、そして自身にとってはVリーグで初めての優勝を決めた瞬間、秋山は大粒の涙を拭うように、両手で顔を覆った。

大エースと呼べる選手がいないチームで、頂点に立った喜び。二度と上がらないと思っていた両肩で、ズシリと重いトロフィーを高々と掲げることができた喜び。

「ここまで続けてきて本当によかった。連覇に挑戦できる喜びやプレッシャーにも感謝しながら、NECの時代を築いていきたいです」

すべてが、ようやく報われた瞬間だった。

(初出:Sportsnavi 2015年4月10日)