第5回 AJPS AWARD 2011 記念写真盾

第5回 AJPS AWARD 2011

第5回AJPS AWARD 2011は会員及び実行委員からのノミネート者8名から選考作業に入りました。この8名(社・団体)を実行委員による協議の末、本年度(2011年)のAJPS AWARD 2011は藤田信之氏に決定されました。

第5回AJPS AWARD 2011 「藤田信之」氏に決定!

藤田信之(ふじたのぶゆき)■受賞理由
400メートルからマラソンまで数々の日本新記録を樹立、また五輪での金メダリストを育成させた指導者としての偉業と実績は現在の日本陸上競技界の発展に大きく貢献している。更に『藤田ランニングアカデミー/F・R・A』において子供たちとふれ合い夢を持ち続ける傍ら次代のトップアスリートの原石を発掘し、育成していこうとい氏の活動はスポーツ界にとっても大きな貢献である。

藤田信之(ふじたのぶゆき)

1940年10月4日、京都府出身。1986年ワコール女子陸上競技部の初代監督に就任し、指導者の道を歩み始める。1999年に創部したグローバリー女子陸上競技部の初代監督に就任、2005年シスメックス株式会社に入社し、創部したシスメックス女子陸上競技部の初代監督に就任する。その間にアトランタ五輪女子マラソンの真木和やアテネ五輪女子マラソン金メダリストの野口みずきを育成。教え子らは、400メートルからマラソンまでの女子中長距離で数々の日本記録を樹立した。更に『藤田ランニングアカデミー/F・R・A』を設立。次世代を担う子供たちにスポーツを通じた人間形成を目的とし、藤田信之監督自らが全国を巡り、子供たちとふれ合い夢を持ち続ける傍ら次代のトップアスリートの原石を発掘し、育成するプロジェクトを立ち上げる。2010年10月、シスメックス女子陸上部の監督を副監督の広瀬永和氏に引き継ぎ、自らは顧問となるが2011年、シスメックス女子陸上部顧問を退任。

第5回 AJPS AWARD 2011 表彰式

2012年度(平成24年度)AJPS総会後の懇親会にて、AJPS AWARD 2011の表彰式が開催され、受賞者の藤田信之氏をお招きし、当協会会長より記念品の写真盾が手渡されました。

当協会会長水谷章人より藤田信之氏に記念の写真盾を贈呈
当協会会長水谷章人より藤田信之氏に記念の写真盾を贈呈
第5回 AJPS AWARD 2011 記念写真盾
第5回 AJPS AWARD 2011 記念写真盾

第5回 受賞者インタビュー 藤田信之氏

藤田信之氏 2011年度AJPSアワードは、陸上競技で28歳から女子選手の指導を始め、400mと800m、1500mをはじめとして、近年行われるようになった3000m障害以外の全種目(15000m、20000m、1時間走の特殊種目も含む)。さらにロードレースでも10kmから20km、ハーフマラソン、マラソンで指導する選手に日本記録を出させ、野口みずきを五輪金メダリストに育てた藤田信之氏に送られた。

藤田氏は70歳になった10年9月末にそれまで務めたシスメックス監督を退いて顧問に就任。さらに昨年9月末には顧問も辞退して、現在はトップアスリートの原石を全国から発掘して育てていくプロジェクト、『藤田ランニングアカデミー』を主宰している。

・・最初の日本記録はユニチカ時代で、70年の河野信子さんの400mの日本記録でしたが、その後は河野さんは400mだけでなく800m、1500mで何度も日本記録を更新していますね。

藤田 僕は大学受験に失敗した浪人中に「春まででいいから」とユニチカに誘われて入って、そのまま中距離や駅伝を走っていたんです。それで、28歳の時(68年)に女子を見てくれといわれてコーチになったけど、その当時は女子は800mまでしかない時代だったから。最初は自分の中距離経験を活かして指導をしましたが、そのうち72年のミュンヘン五輪から1500mや3000mが正式種目になり、それからドンドン距離が伸びて行ったんです。

・・女子種目の距離が伸びていくことも想定していたのですか。

藤田 それはないですね。自分が中距離だから、指導もそれしか出来ないだろうという思いもあったけど、距離が伸びていったから、本当に一から勉強してやってきました。周囲には「藤田はマラソンの指導は出来ないだろう」という声もありましたが、世界選手権や五輪へ出た時に、「戦えるのはマラソンだ」と思ったのもあるから、そこまではちゃんとやらなければという思いはありましたね。

・・中距離のトレーニング法は、1万mくらいまでは共通点がありますか。

藤田 それはないと思いますね。でも僕は中距離で実業団へ入ったけど、5000mや1万mも走ったし、駅伝でも17~18km区間も走ったのでその練習法はわかっていました。ただ、男女の違いはあるので、それを女子用にどうアレンジするかが難しかったですね。それはどの女子コーチでも同じだと思いますが。

・・男子をみたいとは思いませんでしたか。

藤田 それはないですね。人間関係をうまく作れば、信頼してついて来るのは女子の方です。だから女子の指導者にはカリスマ性みたいなものがないとダメなのかな、という気はしますね。女子の方が手はかかるけど、一生懸命やって信じてくれたらやれるのではないかと思いました。最初のうちは「こんなことやっとれん」という気持もあったけど、そのうちに記録が出たり、大会で結果を出すようになったらそんなのは忘れましたね。

・・指導する選手は多いですが、気をつかうのはどういうところですか。

藤田 平等、公平にです。みんな私ひとりを見てほしいという気持は持っているが、選手は2人いれば僕の力は2分の1に、3人いれば3分の1になるというのはわかっていますから。だからマラソンもポツンポツンとしか出ていないんです。監督はひとりの選手だけに傾注してはいけないから、コーチにある程度任せるのは鉄則ですね。アトランタ五輪に真木和がマラソンで出た時も、「僕はお前だけの監督ではない。他の選手もいっぱいいるんだから」と言ってました。

・・駅伝が人気になったことで、うまく距離を伸ばせたというのはありますか。

藤田 それはないですね。今の多くのチームは駅伝に傾いているし、企業にすれば駅伝で頑張ってほしいというのはあるが、女子の場合は6人で42・195kmだから基本的にはトラックの5000mや1万mを強くすれば勝てるんです。だから1年中トラックを頑張るという感じでしたね。マラソンとなると少し違いますけど。

・・藤田監督がマラソン選手を出せないといわれたのは、トラックを重視したからですか。

藤田 そうでしょうね。それに僕はマラソン経験はなく、一度だけ走ったのはユニチカで柏木千恵美にマラソンをやらせていた45歳の時ですから。どんなものかと思って走ったら、3時間10何分かかりました。

・・真木も野口も1万mの走りだからマラソンはきついと言われていましたね。

藤田 野口などはその典型でしたね。でも昔のフランク・ショーターや中山竹通はトラックの走法に近い、腰の位置が高い走りをしていて結果を出していたです。だから、そうでないと世界では戦えないと思っていましたね。僕は5000mや1万mの延長線上でマラソンをやらせたいという理想に描いていたので。そのためにはスピードを殺さないで持久力をどうつけるか。そうしないとこれからの五輪は戦えないというのが現実だと思います。

・・そうなると、マラソンをやらせたい資質を持った選手はなかなかいない?

藤田 真木の場合も1万mではスピードがある方でしたからね。ただ、まだトラックをやりたがっているのに無理やりマラソンに転向させたから選考会とアトランタの2回しか走っていないが、やれればもっといけたと思いますね。真木はバルセロナ五輪は1万mで出たけど、あの時有森がメダルを獲ったのをみて、「あのスピードで行けるのか」とビックリしましたから。93年の世界選手権で浅利純子も優勝したから、「これはもう1万mで戦っている場合じゃない」と思ったんです。

藤田信之氏・・野口選手も01年世界選手権には1万mで出場しましたね。

藤田 あの時の野口は真木の1万mの日本記録も超えてなかったから、やってもしょうがないと思っていたんです。でも行かせて良かったのは「こういう大会があるんだ」ということを本人が知ったし、土佐礼子のメダル獲得を見てマラソンへの意欲を持ったことですね。彼女は真木の名古屋のレースを見てうちに入ってきたから、元々マラソンをやりたかったんです。

・・野口選手も、最初はマラソンをやらせるまで時間がかかると思いましたか。

藤田 関係者はみんなそう思っていたでしょうね。01年くらいの実業団合宿でマラソン選手と一緒に走ると、30kmくらいでフラフラしていましたから。でも走りのリズムはいいなと思っていたので。

・・トラックをちゃんと走れる選手をマラソンにという考えの中には、2時間20分を切る時代が直ぐくるという意識もあったのですか。藤田 1985年にはクリスチャンセン(ノルウェー)が2時間21分06秒を出していましたからね。その後はしばらく落ち込みましたけどね。ラドクリフの2時間15分台はいき過ぎだけど、だからこそトラックのように腰高で走れる選手にマラソンをやらせなければ、世界で戦えないと思っていたんです。

・・アテネ五輪の野口選手は、上り坂でのスパートがピタリと決まりましたね。

藤田 前年の世界選手権で五輪を決めたから、戦うためにどうしようかというのは考えていましたね。僕はアテネだけではなく、北京も故障さえしなかったら、色は違ってもメダルは絶対に獲ると思っていました。ただ、だんだん僕のやりたい方法で出来なくなったこともあったから。アテネは完璧だったし、ベルリンもアテネと同じ練習を再現できたら日本記録は出ると思ってやって、結果はそうなった。その後も北京五輪代表を決めた東京国際女子マラソンまでは完全にそのルートで練習していたが、その後少し狂いが出始めてしまいました。

・・長年の指導で印象に残っているのはどんなことですか。

藤田 全部が一から育てたというのに近いし、ユニチカ時代は何もないところから手探りでやってきましたからね。その中でも、河野が日本女子としては初めて800mで2分10秒を切ったとか、五輪の標準記録に近いところまでいったとか、そういう節目ですね。後は世界の大会にでられるようになった時ですね。ユニチカ時代はチャレンジしても出来なかったけど、最初から世界に出て行きたいという思いはありましたから。

・・私たちから見ていると河野選手や真木選手、野口選手の印象が強いですが。

藤田 それはあるけど、トラックではそこまでいかなかったけど、世界ハーフや世界クロカンに行って基礎を作った子も同じようにやっている中にいましたから。その中の一部が五輪にでたけど、バルセロナの時は1万mに2人出したいと思って、選考会に3?4人出したんです。結果はリクルートが2名でうちは1名でしたけど。

・・藤田さんの指導のなかでの集大成は野口選手でしたか。

藤田 そうは思っていませんね。野口がマラソンで日本記録を作るとは思っていなかったですね。アテネの後で「もしかしたら」と思ってチャレンジしたが、その前は真木や野口の延長線上で誰かが出すかもわからんな、というくらいでした。

・・マラソンの日本記録もかなり前から意識していたのですか。

藤田 教えた種目は全部日本記録をクリアさせたいというのはありましたね。選手にはこの大会で勝ちたいなどの目標があるけど、指導者も一緒じゃないですか。この子を強くしたいというのはあるけど、僕だって誰かに日本記録をもう一つ出させようとかいう目標を持つんです。結果的に、五輪の金メダルの延長で日本記録は出たけど、野口もそれで終わりだとは思ってなかったし。

・・今の藤田ランニングアカデミーでの取り組みも、現場にい続けたいからですか。

藤田 それもあるけど、たまたまあれを始めたのは、将来の日本を背負って立つような選手が埋もれていないかなって。そういう発掘事業を始めて、野口に続くような選手をと思ったんです。でも、なかなか難しいですね。これからは発掘だけではなく、もう少し育成環境も整備していかなければと思っています。

・・これからの意欲をひと言。

藤田 僕も陸上競技があってお陰で、今こうしていられる訳だから、ずっと陸上には係わっていきたいというのはありますね。

(取材/構成=折山淑美)