「遠藤保仁が挑むブラジルW杯」Text by 飯尾篤史

飯尾篤史=文/菅井健次郎=写真

■ブラジルは“特別な場所”

今はただ、深く考えることのなかったあの頃の自分を恥じるばかりだ。

遠藤保仁の口から「ブラジルW杯に出るのが一つの目標」という言葉を聞いたのは、北京五輪が終わったばかりの頃だったから、今から6年ほど前のことになる。

オーバーエイジとしてU-23日本代表に加わる予定だった遠藤は、ウイルス性肝炎に倒れて五輪出場を棒に振り、ようやく復帰したところだった。

その言葉について突っ込んだ話を聞いてないから、「迫りつつある南アフリカW杯の最終予選について」というインタビューの本筋とは外れた雑談だったはずだ。そのときは「そうなんだ」程度の返ししかしなかったように思うし、「そこまでは難しいんじゃない?」という気持ちもあったかもしれない。

遠藤にとってブラジルが特別な場所だと知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。

2013年12月、遠藤はブラジルのサンパウロ州、ソロカーバ市にいた。そこは彼にとって、鹿児島実業高3年の春にサッカー留学した思い出の場所だ。留学期間は約1か月。サンパウロ州3部のECサンベントスの練習に参加し、本場のサッカー熱を肌で感じた。

汚く錆びついた練習場のシャワー。ホテルの部屋もボロボロで、ブラジル人選手とのふたり部屋……。結果を残せなかった選手が荷物をまとめて去っていく姿を何度も目にしたという。ただ楽しくサッカーをしてきただけの高校生がシビアなプロの世界を初めて覗いた瞬間だった。

■ターニングポイントとなった地

ハイレベルだったブラジルリーグの試合にも、大いに刺激を受けたようだ。当時はサンパウロ州の名門、パルメイラスが栄華を極めていた時代である。ブラジル代表のカフー、ジーニョ、アレックスといった名手たちがプレーしていた。「プロでやっていくための厳しさを知ったし、プロとはどういうものかを学んだ」と遠藤は言う。ブラジルは、彼のサッカー人生におけるターニングポイントを迎えた場所なのだ。

ブラジル留学の1年後には、横浜フリューゲルスの一員としてJリーグの開幕戦のピッチに立った。その4年半後の2002年11月には、アルゼンチン代表との親善試合で代表デビューを果たす。現在、142試合の国際Aマッチ出場を誇る彼の記念すべき1キャップ目が刻まれた瞬間だった。

高校を卒業して4年半での代表デビューは、決して遅いほうではない。それが遅咲きの印象を抱かせるのは、華麗なる同級生たちの存在ゆえだろう。小野伸二、稲本潤一、高原直泰、中田浩二、小笠原満男、本山雅志ら、ともに99年ワールドユースで準優勝に輝いた仲間たちは、すでに代表デビューを飾り、なかには02年の日韓W杯のピッチに立った者もいた。

一方の遠藤はというと、その間、サッカー人生で「こんな経験、二度としたくない」という想いを味わった。2000年シドニー五輪のメンバーから落選。バックアップメンバーに選ばれたため、チームに帯同しながら、ベンチには入れず、練習でもグラウンドの隅に追いやられた。

中田英寿、中村俊輔、柳沢敦、稲本、高原らを擁したチームは32年ぶりにベスト8進出を果たしたが、仲間の激闘を、ただスタンドから眺めることしかできなかった。

「ピッチに立つのと立たないのとでは大きな差があるなって、そこで初めて感じた。それが一番の挫折というか、一番悔しかったこと」

■代表最年長は今なお立ち止まらない

日韓W杯後に代表初キャップを刻んだ遠藤は、その後、キャリアを着実に積み上げ、06年のドイツW杯では目標だったメンバー入りを果たした。本大会ではフィールドプレーヤーでただ一人ピッチに立つ機会が得られなかったが、それも自らの力不足を知り、鍛え直す良い機会と捉え、帰国後にはすぐにフィジカルトレーニングに励んだ。

30歳で迎えた4年後の南アフリカW杯では、ついに憧れのピッチに足を踏み入れた。チームは大会直前の不調を乗り越え、アウェーのW杯で初の決勝トーナメント進出。遠藤自身もデンマーク戦で鮮やかな直接フリーキックを叩き込んだ。

何人かの仲間が代表から引退し、自然と招集されなくなった同世代もいる。気づけば、代表では最年長になったが、遠藤に立ち止まる様子はない。

「若い人たちに負けているとは思わないし、ポジションを譲ろうとも思わない。もっともっと上手くなりたいし、代表への思いもキャリアを重ねるにつれ、どんどん膨らんでいる。W杯でもっと上を目指したいから」

決して順風満帆なサッカー人生ではなかったが、うまくいかない時期も、その後の成功のための助走期間――。サッカー人生のターニングポイントとなった約束の地ブラジルで、日本が誇る稀代のプレーメーカーは、集大成となる戦いに挑む。

<著者紹介>
飯尾篤史(いいおあつし)/ライター 東京都出身。サッカー専門誌の記者を経て、12年からフリーランスに転身。専門誌時代には日本代表、FC東京、川崎、G大阪などの担当を歴任。南アフリカワールドカップやカタールアジアカップを現地で取材した。現在は、専門誌、総合スポーツ誌などに寄稿。ブラジルワールドカップも現地取材予定。