「ドーハの悲劇――。日本サッカーにくだされた“天罰”」 Text 杉山茂樹 / SUGIYAMA SHIGEKI

 AJPS報道展「The BEST」ライター会員作品集

「危ない!」と思った瞬間、すべてが木っ端微塵に吹き飛んだ。

オムラムのヘディングがGK松永成立の先を越え、ネットに吸い込まれる。人身事故でも見るかのような悲惨な光景だった。僕は、無意識のうちに記者席から立ち上がり、言葉にならない声を張り上げていた。

古今東西のスケールがいかに大きいとはいえ、ここまでのドンデン返しにお目に掛かることは滅多にあるまい。

1993年10月28日。ドーハのカリファ・スタジアム。

毎度、悲観的な予想を述べ、ひんしゅくを買っているへそ曲がりの僕ではあるが、残り3分を切った時点で日本の勝ちと判断。取材ノートを閉じ、ペンを胸ポケットにしまい込んだ。

日本の守備機会は多くても残り3回。イラクの攻撃はおそらく、焦りを伴ったサイドからの放り込み。日本がその3回を3回ともクリアすれば、ワールドカップ初出場が決まる。その3回が速く経過してくれることを祈りながら「勝った、勝った」を何度も口にした。

■予想を超えていたショートコーナー

「日本はアメリカ・ワールドカップではダントツの最下位、24番目ですね」

「世界のファンに頭を下げながら本大会入りする必要がありますね」

隣り合わせたベテラン記者とも“恥ずかしながらの日本初出場”話に花を咲かせた。

1本目のクロスを、堀池巧がヘディングでカット気味にクリアする。

2本目のクロスは、GK松永が巧みな判断でコーナーキックに逃れた。

この時、残りの分数を示す場内時計の表示は“00”だった。

予想通り3本目のクロスが最後である。時はインジュリータイム。だが、そこでイラクがコーナーキックをショートコーナーにしたことは、僕の予想を超えていた。3本目のクロスの、意外なタイミングに慌てた。ボールの行く先で高々とジャンプする姿が、白いユニフォームであることを確認した瞬間、とんでもない悲劇が訪れた。

ハーフタイムにいろいろな人と意見を交わしながら記者席を歩いた。中には僕以上のへそ曲がりもいた。日本人にもかかわらず、イラクを応援している変わり者だ。「この仕打ちじゃあ、イラクがあまりにも可哀想だよ」と彼。

この大会におけるイラク・バッシングは度を超えていた。「イラクのアメリカ行きを阻止すべし」の通達が、アンダーグラウンドで働いていたことは、審判のジャッジをみれば明らかで、むろんこの日もしかりだった。根の部分では誰にも負けない日本サポーターを自負する僕とて、彼の言葉に頷くところは大きかった。

あらゆる妨害を受け、ワールドカップ本大会出場が絶望になりながらも、素晴らしいプレイを黙々と披露するイラク。その敢闘精神を目の前にすると、イラク頑張れ! の気持ちがどこからともなく頭をもたげ、そしてそのたびにイカン、イカンと日本サイドにつきなおすという覚えは、試合中、確かに何度かあったのだ。

■最後の最後に存在した正義

柱谷哲二の号泣がスタンドに届いた。カズ(三浦知良)は力なく呆然とうつむいていた。ベンチ前では中山雅史が頭を抱え、しゃがみ込んでいた。この試合に、ぜひとも先発してほしかった北澤豪は、口をとがらす怒り顔。僕も涙腺が弱ければ、涙を流していたのかもしれない。

いっぽうのイラク選手は、やるだけのことはやったとばかり、毅然とした態度でロッカールームに消えていった。好感の持てる姿にふと“正義”という言葉が浮かんだ。いったいこの最終予選に正義は存在したのか。僕は大いなる疑問を感じた。が、よく考えれば、しっかりと存在したのである。最後の最後に。

日本の夢を打ち砕いたオムラムの同点ゴール。それは“世界”の良識とアラーの神が一緒になって、イラクに力を与えたものだと考える。審判の圧倒的な後押しを受けながらも、この程度のプレイしか披露できない日本に、ワールドカップ本大会を戦う資格はないと、彼らは怒ったのだ。日本サッカー界はこれを“天罰”と厳粛に受け止めるべきだろう。悲しい、悔しい、日本人の誰もがそう思うだろうが、それに止まることなく、その奥に潜む何かを真っ直ぐに、しっかりと見据えない限り日本サッカー界、ひいては日本人の精神構造に進歩はない。僕はそう思うのだ。

(初出:Number 1993年11月)